水谷胤重
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水谷 胤重(みずがい たねしげ、天文7年(1538年) - 慶長11年(1606年))は相馬氏の重臣。この水谷氏は、相馬郡水谷(みずがい)の地(現在の福島県南相馬市)に由来しており、地元では「みずがい氏」と呼称されており、隣国常陸国の有力豪族水谷(みずたに)氏とは別個の一門とされる。
父は伊達氏との戦いで戦死しているが、関が原の合戦直前に東軍に付いた伊達政宗が中立の相馬領を通過して帰国しようとした際、相馬氏家中では長年の宿敵である政宗を討って恨みを晴らすべきだという声が高まった。これに対して胤重は「相馬氏は代々騙し討ちのような事はしてこなかった」として反対論を述べる。主君の相馬義胤もこの意見を採用し、胤重は伊達政宗の使者である原田宗資と会談して、政宗の領内通過に便宜を図った。このとき政宗が宿を取った北標葉郷川添邑涼ヶ森(双葉郡浪江町)の華光院は現在、正西寺が建っている。戦後、主家の相馬氏が改易されかけたが、政宗は胤重のために相馬氏に便宜を図ったと言われている。