水沢藩
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水沢藩(みずさわはん)は、陸奥国胆沢郡水沢(現在の岩手県奥州市水沢区)に存在した仙台藩の支藩。
藩主家は仙台藩伊達氏の一族である水沢伊達家(旧留守氏)である。ただし、藩成立直後に藩主・伊達村和が水沢城と水沢伊達家の家督を養子・村景に譲る形で放棄を行い、新規に与えられた桃生郡中津山(現在の宮城県石巻市桃生町中津山)に拠点を移しているため、水沢藩という呼称が妥当かどうかという点には議論の余地があり、「中津山藩(なかつやまはん)」と呼ぶべきであるとする説もある。
なお、正式な大名でなかったものの、江戸時代を通じて約1.6万石の石高を有した水沢伊達家の家中・領内を俗称として「水沢藩」と呼ぶ場合もある。後にこの領内から高野長英・後藤新平・斎藤實などの優秀な人材を輩出した。
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[編集] 歴史
藩主・伊達村和は、仙台藩第3代伊達綱宗の次男として生まれて同母兄伊達綱村の養子となる。その後、兄に実子が生まれると、縁組を解消して「田村顕孝」を名乗った。その後、15歳で水沢伊達家の伊達宗景の養子となり、名を「伊達村任」と改める。元禄8年7月7日(1695年8月16日)、兄・綱村による3万石分知の申請が江戸幕府に認められ、同時に名を「伊達村和」と改名した。同月、6歳の伊達村景を養子に迎えて水沢伊達家の家督と水沢領を譲渡する。翌元禄9年1月11日(1696年2月13日)に幕府から麻布六本木に藩邸が与えられ、10月19日(11月13日)に3万石のうち半数を水沢領の代替地である栗原郡・桃生郡から、もう半分を江戸にあった仙台藩の蔵米からの実物支給を受ける事になった事で正式に3万石の石高が確定した。
ところが、元禄12年9月9日(1699年10月1日)、重陽の節句に参加するために江戸城へ登城中であった村和の行列と旗本岡八郎兵衛主従が衝突し、八郎兵衛が村和の家臣3名から暴行を受けたものの、村和は何ら措置を取らずに行列を進めた。幕府は岡氏を改易にしたものの、明らかに非は村和側にあった。激怒した村和の兄・綱村は暴行した3名を斬首して村和の蟄居逼塞を幕府に申し出た。このため同年10月28日(12月18日)、水沢藩は改易されて村和は仙台藩預かりとなり、所領も仙台藩に戻される事になった(なお、藩邸に関しては仙台藩にそのまま与えられる事になった)。このため、水沢藩はわずか4年で断絶する事となった。
その後、享保7年(1722年)に村和が死去すると、嫡男伊達村詮が2千石をもって仙台藩一門としての家名再興が認められた。
[編集] 水沢伊達家
水沢城は元は葛西氏家臣柏山氏の支城であったとされている(一国一城制以後は要害に格下げられていたが、家中においては「城」と呼称されていた)。伊達政宗の移封後、白石宗実や石母田宗頼らが代官を務めていた。寛永6年(1629年)、政宗の従兄弟に当たる金ヶ崎城の留守宗利が城主として配された。宗利は父の政景とともに伊達氏を名乗る事を許されていたため、この系統を「水沢伊達氏」と称する。当初石高は1万石であったが、新田開発などの成果によって6千石の増加をみた。また、宗家からの養子である伊達村任(後の村和)当主時代には5千石が加増されていたが水沢藩成立時に当主の家系が宗家以外の系統に移ったために元の1万6千石に戻された。以後、1万6千石のまま明治維新を迎えた。最後の当主である留守邦寧(伊達邦寧)は家中をあげて北海道札幌郡平岸村に移住し、水沢に残った母の留守伊予子(伊達宗衡未亡人)は岩手県最初の小学校教師の一人として知られている。
[編集] 歴代藩主
[編集] 伊達(だて)家
3万石。外様。
- 村和(むらより)<従五位下、美作守>