東淵江
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東渕江(ひがしふちえ)とは、東京都足立区南東部の地域。現在は行政上の区分ではない。現在の大谷田、佐野、東和、中川、東綾瀬に相当する。なお、記事タイトルの「東淵江」という表記は慣用的なものであり、厳密には「東渕江」である。以下、この記事では便宜的に「東渕江」の表記を用いることとする。
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[編集] 概要
東渕江という地名はそれほど古くなく、歴史上「東渕江」の名称が登場するのは江戸時代初期頃である。それまでは「渕江」という地域の一部であり、その後「渕江領」に編成された。渕江領は江戸幕府の直轄領であり、領内には多くの将軍家ご用達の鷹場が設けられていた。 1641年(寛政18年)に現在の足立区を東西に分断するようにして南北に綾瀬川が開削されると、渕江領はこの綾瀬川(別名「新川」)を境にして、「新川東」と「新川西」の村々に分けられたという。その後1842年(天保13年)に「東渕江筋」の名称が登場し、その後「東渕江」という呼称が一般化したようだ。 1867年に江戸幕府が倒れ明治が始まり行政区画の整理が始まると、「東渕江」の名称は1889年(明治22年)に誕生する「東渕江村」に受け継がれた。東渕江村は1932年(昭和7年)に廃止され消滅するが、「東渕江」の名称は、現在でも足立区立郷土博物館のある東渕江庭園と、その前を流れる葛西用水親水水路に架かる東渕江橋、そして足立区立東渕江小学校に残されている。
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代以前
五、六千年前まで奥東京湾が関東地方中部に深く入り込んでいた頃、「東渕江」の地域も例外なく遠浅の海の底に沈んでいた。その後の海退と河川の土砂堆積で現在の地形が形成されたが、この辺りは利根川の自然堤防の後背湿地に位置し、水利条件はとても悪く、この辺りに進出してきた人々も、当初は自然堤防上の微高地に定住し畑作を営み、内陸の開発は遅れていたと推測される。
[編集] 江戸時代
江戸時代以前は人々は古利根川(現・中川)の自然堤防上で細々と畑作を行っている程度で、とても内陸の後背湿地の開発まで手が回らなかったが、1590年(天正18年)の徳川氏の関東入国からにわかに東渕江の開発が活気づいた。 上述したようにこの地は幕府の直轄領であったので、当然幕府の代官が支配した。東渕江を最初に統治したのは、利根川沿岸で新田十万石を開拓したとされる関東郡代の伊奈忠治である。
1593年(文禄11年)には佐野氏によって佐野新田(さのしんでん、現:佐野1・2丁目)が開かれ、1596年~1615年(慶長年間)には長右衛門新田(ちょうえもんしんでん、現:中川1~3丁目)に伊奈忠次の開発許可が下ろされた。大谷田村(おおやたむら、現:大谷田1~5丁目・中川3~5丁目)が開かれたのもこの頃と推測されるが、1616年(元和2年)に伊奈半十郎忠治から開発許可状が出されたのが、記録上最初の登場となる。北三谷村(きたさんやむら、現・東綾瀬・東和)の河合平内に伊奈忠治から開発許可が出されたのも、この頃1614年(慶長19年)のことである。蒲原村(かばらむら、現:東和3・4丁目)の開発開始がいつ頃か詳細は分からないが、やはり江戸時代初期の1649年(慶安2年)以前には始まっていただろうと推測されている。
現在の東渕江地域の原型はこの頃までに成立した。
[編集] 明治時代
東渕江は明治維新以後、小菅県への編入や大区小区制で名称を奪われたりと、せわしない変遷を経てようやく1889年(明治22年)の市制町村制の施行で大谷田村、佐野新田、長右衛門新田、蒲原村、北三谷村、普賢寺村の6か村を統合して、東京府南足立郡東渕江村となった。村役場は村の中央付近に設けられた。ここには現在、足立消防署大谷田出張所の道路向かい側に立つ石碑がかつての場所を示している(東和5丁目6付近)。東渕江村はその土壌と都心への近さから東京近郊農業として蔬菜類の生産と販売に力を注ぎ、大きな利益を上げたという。
[編集] 戦前期
1932年(昭和7年)に東京市制が開始され、東渕江村は消滅した。
[編集] 現在
現在「東渕江」の名称は足立区立郷土博物館のある東渕江庭園と、その前を流れる葛西用水親水水路に架かる東渕江橋、そして足立区立東渕江小学校に残されている。また、東武バスセントラルが営業する路線バスに「東渕江庭園」という停留所がある。
[編集] 産業
[編集] 農業
東渕江の地勢は利根川・古隅田川の自然堤防と、その後背湿地から形成されている。そのため、田はすべて荒木田とよばれる真土で構成されていた。上述のように東渕江一帯はきわめて水利条件が悪く、水を引き込むのは楽でも、その水を排水するのは困難であった。そこで東渕江では畑作の野菜栽培に力を注いだ。1922年(大正元年)の農業生産額のうち、実に77.5%が蔬菜類であることからも、東渕江の東京近郊農業の特徴が読み取れるだろうと思う。主な販売用蔬菜生産品は漬菜、ねぎ、なす、きゅうり、かぶら、しろうり、ジャガイモ、大根、小豆、里芋、大豆、枝豆、馬鈴薯、蓮根、みつばせり、青菜、小松菜など、25種類を栽培していた。生産された作物はリヤカーや大八車で千住市場へ運ばれた。 戦後、農業の効率化と無秩序な市街地化を防ぐために土地の改良工事が行われたりしたが、周辺の市街地化の進展と区画整理事業が行われると、多くの農家が農業をやめた。急速に宅地化が進んだ東渕江は農村としての性格を失い、現在では住宅地の中に小さな畑地や、区立の農業公園が残るのみである。
余り知られていないが、東渕江ではイチゴの栽培も行われていた。これは1922年に鴨下喜助(かもした きすけ)なる人物がイチゴ栽培に成功したのを契機に、岡田新右衛門(おかだ しんえもん)氏を中心にして東渕江村にも広まったものであるという。栽培品種はフランス産の「ゼネラルシャンジー」で、福羽逸人(ふくば はやと)博士が栽培方法を研究したことから「福羽苺(ふくばいちご)」とよばれた。1930年(昭和5年)には東渕江温室苺出荷組合が組織され、試行錯誤の末に商品化され、銀座方面へ出荷された。商品価値のきわめて高かった東渕江産の「福羽苺」は、時の天皇・皇后にも献上された。しかし都市化の波の中で1935年(昭和10年)頃より栽培されなくなった。
[編集] 工業
[編集] 瓦製造業
利根川の氾濫原野に位置していた東渕江には、瓦や煉瓦に向いた良質な原土が採集できた。これにより1909年(明治42年)頃から、中川沿岸で瓦製造が始められた。その後瓦産業は興隆し、1926年(大正15年)には中川沿岸を中心に、東渕江全体で14軒の瓦製造業者が操業していたという。しかし、日中戦争や太平洋戦争が始まると、戦時統制や日立工場の拡大による用地買収などで瓦製造業は中断を余儀なくされ、戦後は建築様式の変化などから瓦の需要も減ってしまった。近傍の原土も採り尽くしてしまい、遠方から輸送するため採算も取れなくなったことも重なり、戦後復興期のなかで多くの瓦製造業者が廃業した。最後まで操業していた「杉本鬼瓦店」2代目の尾本正一さんが、鬼瓦を初め特殊瓦を製造する技術を認められ、1982年(昭和57年)12月10日、足立区登録無形文化財の鬼瓦工芸技術保持者に指定されたが、1993年(平成5年)、ついに廃業した。こうして東渕江の瓦製造業の歴史は終焉した。
主な瓦製造業者は以下の通り。 ※現在ではこれらの製瓦工場はすべて存在していない。
- 尾本家(杉本鬼瓦店)
[編集] 煉瓦製造業
明治~大正時代になると、浅草の凌雲閣や東京駅に代表されるような煉瓦建築が広がった。1917年(大正7年)には金町製瓦株式会社が現在の中川5丁目に大谷田工場を建設した。これもやはり良質な原土の荒木田が採集できたからである。操業開始した翌年に金町製瓦は日本煉瓦製造株式会社に併合され、大谷田工場も同社に引き継がれた。しかし1923年(大正12年)の関東大震災(関東地震)で工場が倒壊し、さらに凌雲閣の崩壊から煉瓦建築の耐震性が疑問視され始め、1928年(昭和3年)をもって大谷田工場は操業を停止した。敷地は日立製作所に引き継がれた。
主な煉瓦製造工場は以下の通り。 ※現在ではこれらの製煉瓦工場は存在していない。
- 日本煉瓦製造株式会社亀有工場
- 日本煉瓦製造株式会社大谷田工場
[編集] 製紙業
1912年(大正元年)に西羅艶紙工場(にしらつやかみこうじょう)が操業を開始したのが始まりである。この工場では王子製紙から購入した原料用紙を耐水加工し販売していた。1929年(昭和4年)には東渕江村の総生産の60%以上を占めるほど好況を呈した。1920年(大正9年)には現在の大谷田2丁目に松田製紙が工場を建設したが、操業を開始する前に大日本製紙に買収された。大日本製紙は1916年(大正5年)に中川工場の操業を開始していた。
主な製紙工場は以下の通り。 ※現在ではこれらの製紙工場はすべて存在していない。
- 西羅艶紙工場(中川二丁目)
- 大日本製紙株式会社中川工場(大谷田二丁目)
- 大日本製紙株式会社大谷田工場(大谷田二丁目)
- 富士製紙株式会社
- 日本紙業株式会社東京工場(中川一丁目)
[編集] 交通
[編集] 主な道路・橋梁
- 東京都道318号環状七号線
- 東京都道307号王子金町江戸川線
- 東京都道314号言問大谷田線
- 東京都道467号千住新宿町線
- 都市計画道路
- 補助109号
- 補助136号
- 補助138号
- 補助258号
- 補助259号
- 補助269号
- 補助271号
- 補助274号
- 補助275号
- 中川緑道
- 飯塚橋
- 東渕江橋
[編集] 主な河川
[編集] 域内地区
東渕江地域の現在の地区は以下の通り。
- 大谷田1~5丁目 〒120-0001
- 東渕江の東部、足立区の東端に位置する。東西を中川と谷中、南北を都道318号環七通り・都道307号と佐野と接する。
- 佐野1~2丁目 〒121-0053
- 中川1~5丁目 〒120-0002
- 東和1~5丁目 〒120-0003
- 東渕江の南部、足立区の南端に位置する。東西を葛西用水路と東綾瀬・谷中、南北を葛飾区西亀有と都道318号環七通りと接する。
- 東綾瀬1~3丁目 〒120-0004
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
参考文献
- 『足立風土記稿 地区編7 東渕江』(足立区立郷土博物館)
- 『ブックレット 足立風土記7』(足立区教育委員会)
- 足立区立佐野図書館所蔵本
- 足立区立中央図書館所蔵本
ほか
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