日本社会主義青年同盟
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日本社会主義青年同盟(にほんしゃかいしゅぎせいねんどうめい)とは、青年を構成員とする青年政治同盟である。以前は日本社会党と支持協力関係を持っていた。略称は社青同。
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[編集] 歴史
[編集] 結成と内部での論争
当時の日本社会党青年部を中心に、1960年10月15日の第1回全国大会で結成された。結成の準備期間はちょうど安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期であり、社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。当時は構造改革論を支持する活動家が執行部を形成した。しかし、1964年2月第4回大会では、執行部原案が修正され「改憲阻止・反合理化」というスローガンを闘いの中心に決定し、社会主義協会系の活動家が実権を握った。
しかし、1967年の社会主義協会の分裂は社青同にも影響を与えた。1969年9月の第9回大会では、いわゆる「三つの見解」が対立し、向坂派・太田派・反戦派、(解放派、第四インター、主体と変革派など)の間で分裂状態に陥った。論争は直接には反戦青年委員会の運動の性格をめぐって起こった。このうち、向坂派は「第一見解」と自己定義し、日本社会党や総評を強化するという立場を取った。反戦青年委員会については、先進的な活動家の個人加盟組織とすることを否定し、青年部の団体共闘として活動を続けるべきと主張した。「第二見解」は解放派、第四インターなど、社会党や社青同に加入戦術を行っていた新左翼勢力であり、社青同・社会党の解体と、その中の先鋭的部分による別の革命政党をつくることを主張した。「第三見解」である太田派は社会党・総評の解体という「第二見解」の主張には反対したが、当時の社会党・総評の向かう方向には確信を持っていなかったとされる。
1971年の社青同10回大会で向坂派系活動家が執行部を独占し、「第二見解」(反戦派)は除名された。「第三見解」(太田派)系同盟員は10回大会に参加せず、まもなく別組織の社青同全国協を立ち上げたが、社会党は向坂派系執行部の社青同を唯一の党支持協力青年団体として承認し、これ以後社青同は向坂派協会の影響が極めて強い組織となるとともに、急速に組織拡大した。社青同全国協はその後青年フォーラムへと名称を変更し、新潟、福岡、熊本などに一定の勢力を維持したが、現在は組織としては活動休止状態にある(構成員個人としては今も社会民主党などで活動している場合が多い)。
[編集] 労働運動の動向と勢力拡大
10回大会以降、向坂派系指導部による全国的な同盟員再登録運動と地本再建が行われ、解放派、第四インター、太田派の別組織化によって同盟員数は一時的に減少した。しかし、1970年代前半の国鉄や郵政での反マル生(生産性向上運動)闘争や、同盟系労組も含めた春闘の高揚のなかで、急速に組織拡大が進められていった。1973年に福島の電電公社の労働者が頸肩腕症候群に悩んで入水自殺したことから、労働者を犠牲にした資本の利潤追求を告発し、「生命と権利」を守る視点から反合理化闘争を再強化しようとの呼びかけが行われたことも、労働強化に悩む青年の心を急速に捉えていった。また、学生同盟員も1970年代を通じて増大し、学生運動出身の同盟員が官公労、民間など各地の職場に配置されていった。こうして、1973年暮れの12回大会時には、社青同は結成以来最大の組織人員数を抱えるに至った。国際的には、チリのアジェンデ政権の成立、ベトナム戦争におけるベトナム人民の闘いの前進と、これと結びついたベトナム反戦闘争や沖縄闘争の高揚も当時の青年に社会主義運動への展望を与え、社青同の組織拡大へと結びついた。中でも、北海道、東京、千葉、兵庫、広島などの地本が大きな力を持った。
74年にマイナス成長を記録し、高度経済成長は終焉を迎えた。こうしたなか、74年春闘では、オイルショックによるインフレを背景に、労働組合側は30%を超える賃上げを獲得した。この労働運動や反戦運動の高揚のなか、政治の世界においては、国政での保革伯仲、革新自治体の増大など、日本資本主義は大きな危機を迎えた。こうした事態の「正常化」のために、「対話と協調」を唱える三木武夫内閣が登場し、企業・職場では「不況・赤字」宣伝によって労働運動の労使協調化が図られていった。こうしたなか、社会主義協会・社青同の階級闘争路線やその影響下にある青年活動家群は、資本・経営者だけでなく、一部の労働組合にとっても排除すべき対象となっていった。職場を「社会の安定帯」としたい資本・経営者側にとっては、街頭での警察を相手とした示威行動や、党派間の内ゲバに明け暮れていた新左翼よりも、労資対立の非和解性を主張しながら職場・生産点で活動し、労働組合で勢力拡大を図る社青同の方が、直接に危険な存在だったと言えよう。全電通における「協会規制」に象徴される労働運動内の左派抑え込みの動きは、民間労組においては労資協調の第二組合の結成と、第一組合の孤立・少数化という形で急速に拡大していった。労働運動全体でも、「生産性基準原理」を主張する資本・経営者によって「雇用か賃上げか」を迫られた労働組合が労資協調路線へと転換していくなかで、80年代には連合結成、総評解体という労働戦線再編が進められていった。社青同もこの労戦再編に反対したが、その流れは止められなかった。こうして、80年代の社青同は、国鉄分割民営化反対闘争や反核運動の高揚のなかで同盟員の拡大こそ進んでいたが、総評解散の流れのなかで一部を除いて労働組合との公式な関係は絶たれていくことになった。
[編集] 90年代以降
ソ連や東欧社会主義国の解体、日本社会党の分裂、バブル崩壊後の不況下での労働運動の衰退など、90年代以降の社青同を取り巻く状況は厳しいが、職場実態討論を基礎とした活動が現在も継続されている。毎年の春闘期に労組青年部と共催する全国青年団結集会には1000人前後の青年を動員し、全労協や連合に加盟する中央産別の青年部役員や中央執行部にも社青同同盟員や出身者が存在するなど、青年組織としての力量は現在でも小さくない。例えば、05年の連合大会の会長選挙でUIゼンセン同盟の高木剛会長の対立候補となった全国コミュニティユニオン連合会の鴨桃代会長や、現連合会長代行の日教組の森越康雄委員長も、かつて青年時代は社青同の活動家であった。
[編集] 政党との関係
民主青年同盟が「日本共産党のみちびきをうけ」ると自己の性格を規定しているのに対して、社青同にとっては旧日本社会党との関係は支持・協力関係であり、青年同盟でありながら政党から理論面や行動面での指導を直接に受ける関係にはない(これは「元々支持者・党員で固められた団体であるから、改めて『指導』を明言する必要がないからである」という見解もある)。日本社会党は、社青同の運動にとってはあくまで階級的強化の対象であった。現在においても、社会民主党や新社会党が「護憲」のスローガンを掲げているのに対して、社青同は「改憲阻止」という言葉を用いるなど、政治的な争点となっている憲法をめぐる運動・考え方についてもスタンス、理論の相違がある。また、国際的には、日本社会党が社会民主主義政党の国際組織たる社会主義インターナショナルに加盟していたのに対して、社青同は、社会主義インターナショナル系の国際社会主義青年同盟(国際社青同)ではなく、旧ソ連や各国の共産党系の青年組織の影響力の強い世界民主青年連盟(世界民青連)に加盟している(日本からは社青同と民青が加盟)。また、社会党・社民党が「平和革命」という字句を綱領から削除した後も、社青同は科学的社会主義を学ぶ青年の組織として、マルクス・エンゲルスやレーニンの著作の学習に活動の重点を置き続けている。現在の社青同は、中央レベルでは旧社会党の流れを汲む社会民主党、新社会党、民主党のいずれとも正式な支持・協力関係を持たないが、各地本、支部では、それぞれの地域の状況に応じて上記の三つの政党の活動に関与している。
[編集] 同盟員
社青同は中央、地本、支部、班の各級委員会を持ち、班を組織の基本単位とする。「同盟の綱領と規約を認め、班に所属して活動しようとする15歳から30歳までの、すべての青年男女」が同盟員となることができると規約に定められている。同盟員の多くは労働組合や労組青年部の活動家であり、自治労、日教組、私鉄総連、JPU、林野労組、国労、全農林、全労金、情報労連など、旧総評系の官公労、大労組が中心となっている。少数だが、基幹労連、電機連合、全国一般、全水道、JAM、都市交などにも同盟員が配置されている。主要産別には班協議会(班協)が存在するが、規約で定められた正式な同盟の機関・委員会ではない。また、同盟員の多くが比較的労働条件の恵まれている官公労、大労組に所属していることから、民間や未組織の同盟員が少ないことによる活動・討論の幅の狭さや、社青同の活動を労働組合運動の延長線上にしか捉えられない傾向を指摘する意見もある。また、その労組内においても社青同だけで派閥を作る「派閥政治」、あるいは同盟が学習の拠点であったことから「学校政治」と呼ばれて、労働組合が他党派も交えて、組合員大衆から乖離したさながら党派闘争の拠点にされる弊害も大きかった。
[編集] 機関紙
中央機関紙として『青年の声』がある。2003年4月以降はタブロイド版4面で週1回の発行体制であり、各地域・産別の職場実態や職場闘争の報告、春闘情勢、平和運動、学習活動などが掲載されている。様々な産別の職場実態が中心に報告される紙面構成は、他の青年組織、政治組織と比較して『青年の声』の重要な特徴を成している。2004年7月12日号で通算2000号を達成した(創刊当時の名称は『社青同』)。
[編集] 青年共闘運動
職場・産別を超えた青年の学習と交流の場は、青年共闘運動として位置付けられている。かつては、社青同、労組青年部、日本社会党の「三者共闘」(例えば、中央段階では、社青同中央本部、総評青年部、日本社会党青少年局で構成。地域では、社青同支部、地区労青年部や単組青年部、社会党総支部青年部で実行委員会を構成)として平和友好祭や団結集会などが開催されていた。現在の青年共闘運動は、日本社会党の分裂、青年部運動の退潮傾向、社青同同盟員の高齢化などの問題を抱えているが、労組青年部を中心に団結集会や平和友好祭運動が継続されている。また、広島の広島平和記念公園で採火した平和の火をトーチに灯して多くの人々の手によって各地を走り継ぐ反核平和の火リレー運動は、社青同の同盟員が配置されている労組だけでなく、連合系労働組合や市民運動団体の参加も得ながら全国規模で開催されるなど、今なお大きな拡がりを維持している。