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遠藤保仁 |
名前 |
愛称 |
ヤット |
カタカナ |
エンドウ ヤスヒト |
ラテン文字表記 |
ENDO Yasuhito |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1980年1月28日 |
出身地 |
鹿児島県鹿児島市 |
身長 |
178cm |
体重 |
73kg |
血液型 |
AB型 |
選手情報 |
在籍チーム |
ガンバ大阪 |
ポジション |
MF |
背番号 |
7 |
利き足 |
右 |
代表歴 |
キャップ |
44 |
得点/失点 |
3 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )はガンバ大阪所属のプロサッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー (ボランチ)。鹿児島県鹿児島郡桜島町(現在の鹿児島市)出身。
[編集] 経歴
鹿児島県の名門・鹿児島実業高校卒業後、1998年に横浜フリューゲルスに入団するが、同年限りでクラブが消滅。1999年に京都パープルサンガに移籍した。京都がJ2に降格した2001年からはガンバ大阪に移籍。チームの中心選手として活躍している。日本代表も各世代でコンスタントに選ばれており、所謂黄金世代と呼ばれているの選手の1人である。
2006年10月11日インド・バンガロールで行われたアジアカップ予選のインド戦のため現地入りした後、発熱して試合を欠場。帰国後も微熱や肝機能低下などの症状が続き、後の検査の結果ウイルス性肝炎と診断された。10月20日に兵庫県西宮市内の病院へ入院した。 現在は退院し、12月2日の浦和レッドダイヤモンズ戦に後半9分から出場し、復帰した。
[編集] プレイスタイル
- 中盤の底から長短自在に左右に散らす正確なパス、際立つ視野の広さ、要所要所での守備。ガンバの攻撃サッカーにおいて遠藤が果たす役割は大きい。
- 右足のキックは強くてパンチ力がある。チームではFK・CKを任されることも多く、またミドルレンジからのシュートは大きな武器でもある。
- PKとFKの上手さは日本人全体から見ても1・2を争うキックの名手であり、特にPKに関してはPK職人というニックネームも一部でつけられている。PKの特徴としてはゆっくりとした助走から入り相手GKの動きを見ながら相手の逆方向へ蹴る。しかし2005年のナビスコカップ決勝戦、ジェフ千葉とPK戦までもつれ、1人目のキッカーに指名されたが立石智紀にセーブされ、チームも優勝を逃すという悔しい経験もしている。試合後には「初めてPKを失敗した」と話した。その後のリーグ戦でもPKを任されるとほとんど決めているが、ジェフ千葉と対戦したときは立石智紀に再びセーブされる試合もあった。
[編集] 経歴
[編集] Jリーグ出場記録
年度 |
チーム |
J1/J2 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
1998年 |
横浜F |
J |
16試合1得点 |
4試合0得点 |
0試合0得点 |
1999年 |
京都 |
J1 |
24試合4得点 |
2試合0得点 |
2試合0得点 |
2000年 |
京都 |
J1 |
29試合5得点 |
6試合1得点 |
1試合0得点 |
2001年 |
G大阪 |
J1 |
29試合4得点 |
4試合0得点 |
3試合1得点 |
2002年 |
G大阪 |
J1 |
30試合5得点 |
8試合1得点 |
1試合0得点 |
2003年 |
G大阪 |
J1 |
30試合4得点 |
6試合0得点 |
2試合0得点 |
2004年 |
G大阪 |
J1 |
29試合9得点 |
0試合0得点 |
3試合0得点 |
2005年 |
G大阪 |
J1 |
33試合10得点 |
4試合0得点 |
2試合0得点 |
2006年 |
G大阪 |
J1 |
-試合-得点 |
-試合-得点 |
-試合得点 |
通算 |
|
|
220試合42得点 |
-試合-得点 |
-試合得点 |
[編集] 代表歴
- 1998年 アジアユース(タイ)出場 準優勝
- 1999年 ワールドユース(ナイジェリア)出場 準優勝
- 1999年 シドニー五輪予選出場
- 2003年 A代表
- 2004年 A代表
- 2005年 A代表
- 2006年 A代表
[編集] 個人タイトル
- 2003年 - ベストイレブン
- 2004年 - ベストイレブン
- 2005年 - ベストイレブン
[編集] エピソード