山藤章二
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山藤 章二(やまふじ しょうじ、1937年(昭和12年)2月20日 - )は、東京都出身の似顔絵作家、風刺漫画家、イラストレーター。タレントや話題の人物を現代の世相に合致させた作風が特徴とされる。
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[編集] 略歴
- 1937年東京目黒生まれ。四人兄弟の二男。早くに父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育つ。戦争中は三重県に疎開して地元の子供たちからいじめを受ける。戦後に東京目黒へ戻る。三木鶏郎に傾倒し、冗談工房への参加を夢見る。立正中学校・高等学校に進み、高校で美術部に入部。
- 1956年東京芸術大学図案科の入試に二度失敗。家が貧しかったため、親戚から借金して武蔵野美術学校デザイン科に入学。芸大への思いを断ち切れず、武蔵野美大に籍を置きながら画塾に通ってデッサンの練習を重ねるも、計三度にわたる失敗で芸大入学を断念。しかし、このときデッサンを猛勉強したことが、後々になっても山藤の確かな技術を支えることとなった。
- 1957年、武蔵野美大在学中に日本宣伝美術会展で特選を受賞する。
- 1960年に大阪国際フェスティバルで海外向けポスター・コンテストで特賞を受賞し、(株)ナショナル宣伝研究所にデザイナーとして入社後、広告電通賞(ポスター部門)制作者賞受賞。
- 翌年1961年には広告電通賞(ダイレクトメール部門)製作者賞、毎日商業デザイン賞(新聞部門)をそれぞれ受賞。1963年東京アートディレクターズクラブ賞(新聞部門)銅賞を受賞し、翌年からフリーとなる。1970年講談社出版文化賞(第一回)さしえ賞受賞。
- 1971年から「世相あぶり出し」などのイラストによる世相風刺で話題を集め、1976年から「山藤章二のブラック=アングル」(後に「山藤章二のブラック・アングル」)を週刊朝日に連載、「週刊朝日を最終ページから開かせる男」の異名をとる。また1981年から週刊朝日誌上で「山藤章二の似顔絵塾」を開講。塾生にはプロのイラストレーターに育った人も多い。
- イラストに掲載されるサインはデビュー以来「yamafuji'00」「章二(※ 縦印字)」とスタイルによって2種類にわけていたが1993年後者に統一した。
- 2002年の日米首脳会談で山藤の描いた「流鏑馬」のイラストが、小泉総理によって米ブッシュ大統領に手渡されている。
- 多数の受賞がある。「現代の戯れ絵師」を自認している。
幼少時から寄席通いをして落語に親しんでいたこともあり、笑芸人に対する造詣が深い。また阪神タイガースファンとしても有名。朝日新聞の似顔絵イラストも担当しており(1974年から現在まで)、1996年にはこれらを集めた『山藤章二の顔辞典』(朝日文庫)が発売された。
[編集] 「ブラック・アングル」での逸話
- 「ブラック・アングル」は実は逆転の発想の産物である。山藤が「週刊朝日」の仕事に関わる様になったのは1972年からだが、初の仕事は当時イラストレーターとしては珍しかった表紙イラストであった。しかし、山藤の表紙イラストは読者から不評で、1974年の6月限りで終了の憂き目に遭う。とはいえ一方で惜しむ声もあったため、裏表紙ともいえる巻末ページにイラストを持っていくという形で継続された。以降、山藤は「週刊誌を裏から開かせる男」という呼び名を奉られることになる。
- 初期は野坂昭如から批判めいた手紙が届いたり、王貞治が「バットで頭を叩き割ってやる」といきり立っていたという噂を聞かされたりした。胃炎を患って中断したこともあった。「ブラック・アングル」の連載開始が1976年とあるのは、すでにテスト連載されていたのが、胃炎のため本連載開始が1年延びたためである(テスト連載は1974年からスタートし、同年末で終了)。
- 「ブラック・アングル」の特徴はイラストを黒枠で囲ってあることだが、テスト連載時代は赤色などで囲っていた事もあった。黒枠は試行錯誤の産物である。
- 1976年に武者小路実篤が死去した際、武者小路がよく書いていた色紙『仲良き事は美しき哉』をパロディーにした作品を掲載した。野菜の絵を、ロッキード事件の主役の田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治の顔に置き換えたもので、下には武者小路がキャラクターのブラック氏を叱り付ける絵が添えられていた。「ブラック・アングル」での画風模倣の先駆であり、以後もさまざまな模倣画を掲載している。
- 1976年の「いもジュリー」事件以降、沢田研二を揶揄するイラストをよく掲載していたが、沢田本人やファンから抗議の手紙は来なかった。
- 「いもジュリー」事件の際は、「はじめ人間ギャートルズ」の主人公一家をおびやかす「新原始人間」として沢田を描いた。
- 1977年年、常用漢字試案から「芋」「殴」が削られた際は、それを惜しむ沢田を登場させた。
- 1979年、沢田がPARCOのポスターに初の男性ヌードモデルとして起用された際は、「時代の鼓動を鳴らすのは誰だ」のキャッチコピーをもじって「男か女かわからないのは誰だ」と揶揄した。
- 1976年に「新原始人間」として揶揄したイラストの中に張本勲がいたが読売ジャイアンツに移籍した当時張本はいかつい風貌からよく暴れ者と曲解されていたという。山藤はこれをえさに揶揄したイラストを載せているがこれ以外では
というのがある。
- 初期は丁度ウーマン・リブ運動の盛んな時期にぶち当たっていて、とりわけ飲む避妊薬・ピルの解禁を徹底して叫んだ榎美沙子を徹底的に揶揄。1977年に日本女性党を組織して参議院議員通常選挙に出馬するとところかまわず公認候補を立てた事を餌に揶揄するイラストを掲載した。(みごろ!食べごろ!笑いごろ!のキャラクター「デンセンマン」に引っ掛け「男の迷惑顧みずやって来ました…エノキマン!!」というもの)これが原因が榎の日本女性党は全員落選して解散。さらに運動が萎んでしまった。これで「男尊女卑主義者」のレッテルを貼られるのを恐れたか以降フェミニズム誹謗の絵は掲載していない。
- 1977年に当時の環境庁長官だった石原慎太郎が水俣病の患者からの抗議文について「これを書いたのはIQの低い人たちでしょう。(それにしては)非常にしっかりした文章というか、あるタイプの文章だ」と述べ、世間から顰蹙を買った。山藤は、当時研ナオコが出演した金鳥のCM(「トンデレラ、シンデレラ」)にかけた絵を掲載した。石原を蝿に見立て、石原蝿が暴言を吐くと研が「あっ、またまた言ッテレラ!」、石原蝿が落っこちると「あっ、慎(シン)デレラ!!」と言うもの。山藤は「失言放言は漫画にとって絶好の材料になる」(『山藤章二のブラックアングル25年 全体重』)と語っている。
- 1977年に井上陽水が大麻取締法違反(大麻所持)容疑で逮捕されたときには、サイケデックスタイルの井上の似顔絵を描いた。しかも、当人の代表曲「心もよう」をドラック・ソングに改作した。井上に限らず、ミュージシャンを揶揄した絵はほかにもあるが、後には、毒の要素は薄まり、ミュージシャンをネタにした絵もほとんど描かれなくなった。
- 1978年、阿部定事件をモチーフとした大島渚監督の映画「愛のコリーダ」が「公然猥褻罪」を理由に警察の手入れを受け、これに激怒した大島が裁判闘争を起こした。山藤はこれを題材に、大島が股間に大きなピラミッド形のテントをかぶせ「(裁判が)長引きそうだから、今評判の“ピラミッドパワー”で体力をつけとくか……」と話している絵を描いた。この年、夕刊フジの100回エッセイのイラストでも大島の似顔絵を書いているが、ここでは陰部を隠したオールヌードだった。
- 暴力団対策法が制定される以前は、よくヤクザをネタのベースにした絵を載せていた。特定個人の似顔絵を出したのは、山口組三代目組長の田岡一雄(故人)のケースがあるのみである。1978年に、田岡が当時敵対していた松田組(現在は解散)の組員に狙撃され負傷するという事件が起きた。山藤は、田岡の病室を描き、そこに、当時グラウンドで暴力騒ぎを起こしていたシピン選手(巨人)を立たせた。組員が「暴れさせてくれるんなら助っ人でもなんでもやるっていうヘンな外人が来ましたけど、どうします……?」と田岡に取り次いでいるという物騒な絵であった。なお、田岡を狙撃した組員は後に遺体となって発見された。
- 日本医師会は武見太郎(故人)会長時代に絶対的権力を誇り、故にマスコミは同会を完全タブー視していたが山藤は果敢にもタブーに挑み1978年と1979年に武見を揶揄するイラストを掲載した。前者は厚生大臣として初入閣した橋本龍太郎(故人)を武見の孫に見立て「厚生省(現在は労働省と合併し厚生労働省)は武見の下では完全なポチになっている」と揶揄し1979年にテレビレポーターが突っ込んだ質問をした事に腹を立て水をまいた事件が発生すると武見を高血圧患者として入院しようとして揉めているという絵を掲載した。現在は現役医者の内部告発や誤診被害者・遺族の裁判闘争が連日取り上げられる事でわかるようにタブーはなくなっているがそれを考えるとマスコミは山藤に感謝しているのではないか。ちなみに山藤はこれで日本医師会・武見、実子の敬三から抗議を受けておりません。
- 1980年にイラン駐在の米国大使館が当時の最高指導者ホメイニ師を崇拝する学生によって占拠され、その結果米国との国交が断絶される事態に発展した。当時のカーター米大統領は、人質の大使館員を救出することに失敗した。山藤はそのニュースを受けて、カーターがホメイニの家に夜這いに行ってひどい目にあわされるという日本昔話調の絵を描いた(「夜這い加太(かーたー)」)。米大統領を揶揄したものとして最高傑作との声も高い。
- 1981年、オリンピックの招致合戦に参加していた名古屋市が、IOC総会でソウル市に敗れた。その件に関し、マスコミは、当時「名古屋風刺」のネタを披露していたタモリに感想を求めた。タモリはラジオ番組「オールナイトニッポン」でコメントを出した。放送を聴いた山藤は「これより面白いものは出来ないと全面降伏、深夜放送を聴いていない人に紹介しようと思った」(『山藤章二のブラックアングル25年 全体重』)ため、タモリの感想を再録した作品を掲載した。実際に話された文章を主体とした作品はこれが唯一。タモリはこれ以後名古屋ネタを封印している。
- 1982年に阪神タイガースコーチ2人による岡田功審判暴行事件が起き、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長(故人)は2人の永久追放の検討を発表した。ところが、それに至る過程で発言が二転三転し、鈴木が高齢であったところから「老害」との批判を受けた。山藤は、鈴木が「わしゃ絶対にやめんぞ!」と鬼気迫る表情で語る姿をベン・シャーンの筆致で描いた。筒井康隆はこの作品を「ドーミエに迫る一級の芸術作品」と評した(『ブラック=アングル(5)』解説)。
- 1984年に相撲界で小錦が台頭すると、山藤は彼の大きな全身像を錦絵風に描いた。小錦の筋肉のたるみが尻に見えるところから、同年のグリコ・森永事件の犯人「かい人21面相」に引っかけて「かい人21尻相」と題した。絵には、たしかに21個分の尻のようなたるみが描かれていた。
- 皇室関係では、初期には天皇・皇后の似顔を掲載することもあった(1977年)。1989年の昭和天皇崩御の際は、「昭和」という元号が星になって夜空に飛んでいく絵を描いた。これは一種の予定原稿で、署名は「Yamafuji '88」となっていたが、雑誌掲載時には「'88」の文字が削られた。1993年に皇太子と小和田雅子が成婚した際は「慶祝休業」の絵を掲載した。
- 1989年の「平成」改元にちなんで、刑事事件で逮捕された人々が「塀静」と習字している様子を描いた。その顔ぶれは三浦和義(会社社長)、岡田茂(元三越社長)、田中角栄(元首相)、それにタレントの木村一八。木村は横山やすしの長男で、タクシー運転手に暴行して逮捕された。事件当時19歳であり、報道記事では「横山やすし長男」と伏せたものもあった。山藤は作品の上で自粛することはなく、前年末にもピカソの絵に模した横山父子の絵を描いている。なお、この年週刊文春が集団暴行殺人の加害少年らを実名報道し、論議を呼んだ。
- 1992年に右翼活動家の野村秋介が横山やすしらと「風の会」を結成、その年の参院選挙に比例区で立候補した。山藤はこれを「虱(しらみ)の党」と揶揄するイラストを掲載した。右翼を揶揄の対象にしたイラストレーターは山藤のほかにほとんど例を見ないが、翌年10月に野村がこのイラストに抗議して朝日新聞社の常務を脅し、東京本社社屋を占拠した後に拳銃自殺するという凄惨な事件に発展した。事件直後の1993年11月5日号の「ブラック・アングル」は白紙掲載という異例の事態となった。以後は右翼を揶揄することはなくなった。
- 落語関係では、1978年の落語協会分裂騒動を題材にした作品もある。当時の会長5代目柳家小さんによる真打乱造に反発した同会顧問の6代目三遊亭圓生が、一門弟子を引き連れて脱会し、「落語三遊協会」を設立した。作品では、小さんがインスタントの味噌汁を作ってる横で、圓生が鍋を煮て、「じっくり時間をかけなくちゃ、『ん、バカウマ!』てェわけにはいきませんョ!」と呟く。小さんは永谷園の即席味噌汁「あさげ」のCMに出演しており、圓生はハウス食品の「ほんとうふ」のCMに出演していた。
- 自民党所属の政治家を揶揄する絵を載せているケースが多いが、これは政権党であるため、世間から批判の俎上に載せられることが多いためである。山藤自身は、小渕恵三・小泉純一郎ら首相経験者とも面識があり、米大統領に贈るイラストレーションを複数回、依頼されている。
- 美空ひばりを誹謗・揶揄するイラストを掲載している山藤だが「ブラック・アングル」に限れば意外と少なくわかっているものでは1976年に小野吉郎(当時のNHK会長・この年引責辞任)と睨み合っている絵を掲載して子供のけんかの様だと揶揄したのと、1979年にNHK紅白歌合戦に7年ぶりに出場した際藤山一郎と共に「特別出演」であった事をえさに「過去の栄光で視聴率をとるようじゃ終わりだ…」、すなわち「過去の人」と揶揄したものだけである。それでも美空が死去した直後作家の石堂淑朗から「(美空)ひばりをここまで貶した絵描きはいない!!」と絶賛されていたという。山藤によると「彼女には高慢・見栄っ張りという性質と取り巻きに暴力団(=コワイ世界の人々)がいるという好きじゃないところがありそれを画材にした」のだとの事。
- 井上ひさしをネタにした絵を掲載している山藤だが(有名なところでは使えなくなった髪とかしブラシで歯を磨く、歯の形が麻雀の牌になっているなどトレードマークの出っ歯をネタにしたもの)、「ブラック・アングル」では掲載していない。掲載している「週刊朝日」では井上ひさしが連載を持っている関係でやはりやりづらいと思われよう。
[編集] 主著
- 『イラスト紳士録』(文藝春秋 1973)
- 『山藤章二のブラック・アングル(1)~(22)』シリーズ(朝日新聞社 1978~2001)
- 『新イラスト紳士録』(文藝春秋 1979)
- 『山藤章二 戯画街道』(美術出版社 1980)
- 『世相あぶりだし(1)(2)』(新潮文庫 1982)
- 『軟派にっぽんの100人』(集英社文庫 1982)
- 『イラストエッセイ パンの耳』(集英社文庫 1982)
- 『イライライラストレーション』(新潮社 1983)
- 『オール曲者』(新潮社 1985)
- 『忘月忘日 アタクシ絵日記(1)~(8)』(文春文庫 1987~2001)
- 『器用貧乏 山藤章二イラストレーション』(徳間書店 1993)
- 『山藤章二の顔辞典』(朝日文庫 1996)
- 『カラー版 似顔絵』(岩波新書 2000)
- 『山藤章二のブラックアングル25年 全体重』(朝日新聞社 2002)
- 『世間がヘン 山藤章二のずれずれ草』(エッセー、講談社 2000)
- 『まあ、そこへお坐り』(エッセー、岩波書店 2003)
- 『平成サラリーマン川柳傑作選』シリーズ(共著、講談社 2004~)
[編集] テレビ・ラジオ出演
- ブロードキャスター(TBSテレビ)
- 荒川強啓 デイ・キャッチ!(TBSラジオ(1995年~2003年まで月曜レギュラー。上記「ずれずれ草」はこの番組内のコーナーでの内容を採録した)
- 象印クイズ ヒントでピント2代目男性軍キャプテン(1980年~1982年)(テレビ朝日)
- NHKラジオ「新・話の泉」(毎週最終月曜日放送)レギュラー出演
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