ジョン・シピン
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ジョン・シピン(John Sipin, 1946年8月29日 - )は、大洋ホエールズ、読売ジャイアンツで活躍したプロ野球選手。米国 カリフォルニア州出身。
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[編集] 来歴・人物
常に3割を狙える安定した打撃が売りの外国人選手であり、1970年代のプロ野球を代表する二塁手である。好守にも定評があり、米田慶三郎(後に山下大輔)との二遊間は、当時リーグでも屈指の併殺率を誇った。特に送球の速さは抜きん出ており、一塁手の松原誠は、あまりにシピンの速球が速いため左手がしびれてしまい、捕球するのを嫌がったといわれている。
[編集] エピソード
- ファッションに独特の哲学を持っていたようで、大洋在籍時には、「ライオン丸」と形容されたようなあごヒゲを伸ばしていたり、サイケデリックな私服で球場入りしたり、ヘルメットを被って二塁の守備についたりと、「派手で奔放な野生児」というイメージがあった。しかし巨人に移籍してからは「紳士たれ」の教えによって没個性なファッションに変えられてしまったのだが、凶暴性が顔をのぞかせてしまったようで、実際移籍した1978年には2度も死球に怒ってマウンドに突進して投じた投手(大洋の門田富昭とヤクルトの鈴木康二朗)を殴って退場を宣せられたほどだ(大洋時代にも退場経験はあるが暴力がらみではなく、田中俊幸セ・リーグ審判の判定に激怒してホームベースに砂をかけたことによる)。
- 大洋時代は長嶋茂雄のことを「ナギー」や「シギィ」と親しみを主とした愛称で呼んでいたが、巨人に移籍してからは長嶋監督のことを「ミスター・ナガシマ」と、距離をおいた尊敬の念を持って呼んでいた。
[編集] 所属球団
- 1972年~1977年 大洋ホエールズ
- 1978年~1980年 読売ジャイアンツ
[編集] 通算成績
- 1036試合出場、打率.297(3779打数1124安打)、218本塁打、625打点、29盗塁
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第42代
-
- 先代:
- デーブ・ジョンソン
- 次代:
- 山本功児