水俣病
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水俣病(みなまたびょう)は公害病の一つ。英語ではMinamata-disease。1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたためこの名がある。この後、新潟県で発生した同様の公害病の病名も水俣病である。これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがた―)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。
この熊本水俣病と新潟水俣病そしてイタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病といわれ、高度経済成長の影の面として知られる。
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[編集] 症状
水俣病は、メチル水銀水銀による中毒性中枢性神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭さく、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたりさらには死亡する。一方,比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・臭覚の異常、耳鳴りなども見られる。メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至る例が多い。これらは、メチル水銀により脳・神経細胞が破壊された結果であるが、それのみならず、血管、臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響する可能性も指摘されている。また、胎盤を通じて胎児がメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する。上記症状のうちいくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は体内に残留しないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。一方、長らくの間、ハンターラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた傷害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の傷害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。 重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊大研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像=ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。
[編集] 原因
水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である。メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。 わが国で水俣病が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒド生産時に副生したメチル水銀を含んだ排水を、とくに1950年代から60年代にかけて八代海(不知火海)に多量に廃棄したため、メチル水銀が魚に生体濃縮し、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等に被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。
メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。このときはアルキル水銀の農薬工場における従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。
[編集] 経過
少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起った。その事が現在も差別や風評被害につながっている。
水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるをえなかった為、被害が拡大されていくことになった。
水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの中傷や新日本窒素肥料に同情的見方もあった。
1959年、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表し、水銀は新日本窒素肥料水俣工場から排出されたものである疑いが濃くなった。同年11月には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに止まった。有機水銀説が出されると、新日本窒素肥料および日本化学工業協会などはこれに強硬に反論した。
1960年、政府は経済企画庁、通産省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせたが、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅している。
一方、1959年末には、新日本窒素肥料は水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。同時に工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去にはまったく効果がないことが明らかにされた。このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年始めころから地理的な広がりを見せており、このあとも根本的な対策が取られないままに被害はさらに拡大していった。その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。
なお、2003年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判決は、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県にも責任があることを認めている。
昭和30年代前半から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年、胎児性水俣病患者がはじめて確認された。水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。
1965年、新潟大学は、新潟県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。これはのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる。
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。
[編集] 公害裁判
1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。政府統一見解後の1969年には、熊本水俣病患者の一部らが新日窒を被告として、熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。
1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。
1973年には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟では被告の新日窒は、工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はないと主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
[編集] 補償と救済
水俣病として認定された患者は原因企業であるチッソおよび昭和電工からの補償を受ける。補償内容は1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により,一時金一人1,600万~1,800万円、年金、医療費などで、認定患者の数は約3,000人(死者含む)である。公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。現在の認定基準は1977(昭和52)年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された昭和52年判断条件で、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。一方、この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となっている。国や原因企業などを相手に損害賠償請求訴訟を起こしていた未認定被害者らは、1995(平成7)年、自民・社会・さきがけの連立与党三党による調停を受け入れ、これら訴訟の大半が取り下げられた。この解決により、被害者には一時金260万円などが原因企業から支払われたほか、医療費の自己負担分などが国や県から支給されている。平成7年の政治解決の対象者は約12,700人に上る。この政治解決を受け入れずに訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟である。2004(平成16)年,最高裁判所は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。また認定基準については、昭和52年判断条件は補償協定による補償を受け取る要件として限定的に解釈すべきであるとし、その症状の一部しか有しないものについてもメチル水銀の健康影響を認め、チッソなどに600万円~850万円などの賠償の支払いを命じた。一方、この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。国は医療費の支給などが受けられる新保健手帳の受付を再開したが、この受給者は2006年11月末までに6,500名を超えている。さらに公健法による患者認定の申請者も4,600人にのぼっているが、認定審査会は最高裁判決以降は開催されておらず、このほかに1,000人以上を原告として、国や原因企業などを相手取った新たな損害賠償請求訴訟も提起されるなど、救済と補償問題は未だに解決には至っていない。
[編集] 原因物質の名称
当初、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。しかし、すぐにこの物質がメチル水銀であったことが判明した。
ただし当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は有機水銀と表記されていることがある。
[編集] 水俣病発生地域
水俣市周辺(八代海沿岸)、新潟県阿賀野川流域以外では、1970年代前後に中国の吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、1990年代になってアマゾン川流域でも発生が確認された。中国のものは、吉林省吉林市にある化学工場の、チッソ水俣工場と同様の工程が原因。アマゾン川流域のものは金鉱山で利用した有機水銀が流出したことが原因。
[編集] 水俣病と行政
1987年3月30日熊本水俣病の第三次訴訟(熊本地裁)で、相良甲子彦裁判長(当時)は原告勝訴、国と県の責任認める。
2004年10月、熊本水俣病についての政府の責任を認める判決が最高裁においてなされた。公害に対する政府の責任を明確にしたという意味では画期的な判決ではあるが、被害者の立場からすればあまりにも遅すぎる判決であった。
[編集] 慰霊
水俣病公式確認から50年目に当たる2006年4月30日、水俣病慰霊の碑が完成した。碑には認定された犠牲者314名の名簿が納められた。毎日新聞社の記事によると名簿に名を刻まれた犠牲者は、未だ絶えない差別を恐れた遺族の意向で全体の2割にとどまった。これは水俣病が与えた社会的影響が未だ解決には程遠い事を示している。
政府は水俣病に対して積極的な解決を図ることをアピールしているが、認定基準を改めないなど実質的な進歩は見られない。
[編集] 水俣病を描いた作品
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 水俣病センター相思社(被害者・支援団体)
- 国立水俣病総合研究センター(環境省)
- 水俣市立水俣病資料館
- 水俣病百科(熊本日日新聞)
- 環境基準について(環境省)
- 水俣病問題に係る懇談会 議事次第・会議録・提言書(環境省)
- ノーモア・ミナマタ国賠等請求訴訟弁護団
- 水俣病関連資料の公開にあたって