妙玖
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妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は毛利元就の正室である。妙玖は法名であり、本名は伝わっていない。
父は吉川国経、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
1499年、安芸国国人吉川国経の娘として小倉山城で生まれる。
成人後、安芸国の有力国人毛利氏の一族である多治比殿・毛利元就に政略結婚で嫁ぐ事となった。輿入れの時期については二説あり、毛利元就が多治比殿として独立した後の1513年頃、もう一つは有田中井手の戦いの前後の1517年に多治比猿掛城に輿入れしたとの説である。政略結婚であったが仲睦まじく、長女(高橋氏養女)、次いで1523年には待望の嫡男である隆元、1525年頃に次女の五龍の方(宍戸隆家室)、1530年に元春、1533年に隆景を産む。
養子に出した徳寿丸や、背反常ならぬ実家吉川氏の当主・吉川興経を案じながら、1545年の秋、47歳で死去した。墓所は不明。
[編集] 夫婦仲と本名について
妙玖の死後、元就は書状などで「妙玖が生きていたら・・・」と何度か書いてある様に夫婦仲は良かったものと考えられている。妙玖夫人の本名は不明だが、法名から推測するに「玉」か「久」であったと思われる。
1997年放映の大河ドラマ「毛利元就」や原作となった永井路子の「山霧」では、巳年生まれなので「お美伊」とされている。
妙玖夫人の亡くなった1545年の秋には元就の継母である大方(高橋氏)も亡くなっており、墓所が現存している。しかし同年に死去した妙玖夫人の墓所は妙玖庵の近くにあったという説が有力であるが、現在でも確認されていない。小早川隆景死後に忘れ去られたという意見もあるが、安芸から萩に移住した熊谷氏や宍戸氏は、江戸時代でも墓参りを欠かさず、熊谷氏・宍戸氏の墓所は現存している。他に毛利氏に連なる五龍殿(元就娘)の墓等も現存しているのに関わらず、偉大なる毛利元就夫人である妙玖の墓所は確認されていないのは不自然である。
毛利氏の家内の捏造には前科がある。毛利弘元夫婦の墓は現在隣に仲良く並んでいるが、これは明治2年に「偉大なる毛利元就公の両親の不仲がバレてはまずい」という理由で夫人の墓を弘元の横に移動させたのである。元就夫婦が実際に仲睦まじかったかは、疑問の残るところである。