高橋氏
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高橋氏
- 筑後国の一族。初め大蔵党の一派。のちに豊後大友氏の一族出身の高橋鑑種、高橋鎮種が家督を継いだ。前段で詳述。
- 石見国・安芸国に栄えた一族。高橋興光の代で毛利元就に滅ぼされる。後段で詳述。
- 磐鹿六雁命(後世、日本料理の神として尊崇を集めた)を祖とする古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称した。代々内膳司を勤めており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに家記『高橋氏文』(789年奏上。逸文のみ残る)を奏上したことで知られる。
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[編集] 筑後高橋氏
高橋氏(たかはしし)は、筑後国北部の御原郡の国人で、筑後十五城の一つ。
[編集] 大蔵党系
大蔵春実の子孫の大蔵光種が筑後国御原郡高橋に住し高橋光種と名のったのがはじまりとされる。筑前国の原田氏、同朝倉郡の秋月氏、筑後国山門郡の田尻氏とは大蔵党の同族である。光種は足利尊氏から九州検断職に任じられている。 大友氏十代の大友親世の頃にその支配下に属し、さらに光種の七代後の高橋長種に子がなかった。高橋氏旧臣たちの懇請により大友一族の一万田親泰(親敦)の子の鑑種が高橋氏の名跡を継ぎ、高橋氏は大蔵党氏族から大友一族の一万田系に変わり、以降、大友氏配下の家系となる。宝満城、岩屋城を治める。
[編集] 大友一族系
高橋鑑種は武勇にすぐれ、弘治三年(1557年)に秋月文種が大友氏に叛いた時、筑後の蒲池鑑盛、田尻鑑種、草野鎮永らが出陣したが、高橋鑑種は大友軍の指揮官となって活躍した。この時の功により鑑種は筑前国御笠郡に2千町を与えられ、それまでの筑後国御原郡下高橋から移り、宝満山城を本拠地とし、大友氏の筑前守護代となる。
[編集] 高橋鑑種
永禄九年(1566年)、高橋鑑種は、以前から筑前・豊前に侵出していた毛利元就に内通し、大友氏当主の大友義鎮(後の大友宗麟)に叛いた。(この時、立花城城主立花鑑載も共に毛利元就に内通し、大友義鎮に叛いている)。鑑種は、秋月種実をはじめ原田氏、筑紫氏、宗像氏などと共に毛利氏の九州派兵を要請した。戸次鑑連を指揮官とする大友氏の主力として最後まで奮戦したのは豊後の朽網氏、一万田氏、筑後の蒲池氏、田尻氏、溝口氏、三池氏、問註所氏であった。
永禄十二年(1569年)に尼子晴久の家臣山中鹿之助が山陰に攻め込んだために、毛利元就は九州から撤退し、そのため後ろ盾を失った高橋鑑種は進退窮まり大友義鎮に降るが、鑑種は殺害され、高橋氏は所領を没収され、再度断絶の危機を迎える。
[編集] 高橋鎮種(高橋紹運) と高橋元種
そのとき高橋氏の名跡の後継者として白羽の矢を立てられたのが、縁戚吉弘鑑理の子である。この鑑理の子が、高橋氏の名跡を継ぎ、名を高橋鎮種と改め、剃髪後は高橋紹運と称した。
一方、鑑種を滅ぼした大友氏を快く思わない旧臣は、鎮種を後継者と認めず、同盟相手であった秋月氏より養子を迎えて正当な後継者と主張した。これが高橋元種である。ここに九州の名族高橋氏は2流に分裂することとなる。
[編集] 高橋氏の消滅
紹運の長男・統虎は立花道雪の要請により養子となったため、次男・統増が後を嗣いだ。しかし、後に統増は兄にならって立花姓に改姓し、高橋姓は消滅してしまった。
一方、元種は九州征伐では島津氏につき敗北、延岡に転封される。関ヶ原の戦いでは西軍に着いた物のその後の寝返りが功を奏して所領は安堵された。しかし、慶長18年(1613年)に突如改易となり、大名としての高橋氏は滅亡してしまった。原因として複数の説があるが、実は大久保長安事件に巻き込まれた物と思われる。その後、元種の長男は父の預かり元となった棚倉藩へ同行し、後にその藩主となった丹羽氏に仕官して二本松藩藩士となった。次男は旧縁のある島津氏を頼り鹿児島藩に仕えた。
[編集] 関連項目
[編集] 石見高橋氏
高橋氏(たかはしし)は、主に安芸国・石見国に勢力を張った国人豪族。
紀氏の流れを汲む武士で、駿河国高橋を領した縁で高橋姓を称す。 高橋光国の代に備中に移封され、さらに高橋師光の代には高氏とつながりがあった関係で、観応の擾乱のあおりを受け石見へ転封を余儀なくされる。
戦国期、高橋久光・高橋元光が当主の時代に最盛期をむかえたものの、その後は相次ぐ当主の戦死や一族の内紛などでその勢力は衰退し、高橋興光の時代に安芸の国人毛利元就に滅ぼされた。
なお、高橋氏の流れを汲む石見の国人としては本城常光がいるが、彼もまた元就によって滅ぼされている。