有田中井手の戦い
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有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)は、1517年に安芸国で起こった戦国時代の戦争である。この戦いでは、毛利氏と吉川氏の連合軍と安芸武田氏が戦った。
尼子氏の支援を受けた安芸武田氏当主武田元繁が、旧安芸国守護の威厳と勢力を取り戻すために吉川領の有田城を攻めたことが発端になり、発生した合戦である。
[編集] 大内義興の上京と尼子経久の蠢動
1508年、周防国の大内氏の影響下にあった武田元繁は大内義興が将軍足利義稙を奉じて京都に出陣した際にそれに従った。しかし大内義興ら大内氏の主力軍が在京中、安芸国では尼子経久の策略により紛争が続出し、義興は旧守護の武田元繁を帰国させ、その対応に当てることとした。義興は元繁の奮闘を願い、権大納言飛鳥井雅俊の娘を養女として元繁に嫁がせている。
しかし武田元繁は旧安芸国守護職の権威を取り戻し、大内氏の属国状態から脱却すべく行動を開始した。まずは大内氏の息のかかった妻の飛鳥井氏を離別し、尼子経久の支援を受け、大内義興へ背いた。そして大内氏の所領への侵略を開始した。
まずは紛争の続いている厳島神社の神領を接収、近隣の己斐城も手に入れると次はその矛先を北へと向け、山県郡内の大内側の諸城を攻撃した。
[編集] 概要
永正14年(1517年)2月、山県郡今田に進出した武田元繁は、近隣の諸豪族を糾合すべく服属を呼び掛けた。すると日和見の国人衆が続々と馳せ参じ、三入高松城主熊谷元直・八木城主香川行景・己斐城主己斐宗瑞らを主力とする5000余の兵力となった。
同年10月3日、武田元繁はついに小田信忠が城主を務める有田城を包囲した。
これに対する大内側の主力は吉川氏と毛利氏であったが、毛利氏は前年に毛利興元が死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となっており、戦に力を割ける状況にはなかったのである。しかも旧守護の武田氏を相手にするのは、弱小勢力の毛利氏にとっては荷が重すぎたのである。それだけでなく主家の大内氏は主力となる軍勢を京都に展開しており、とてもではないが大内義興を当てにできない状況であった。
10月21日、武田軍の熊谷・山中・板垣らが600騎を率いて毛利氏所領の多治比まで出撃し、民家に放火して毛利氏を挑発するという挙に出る。毛利元就はこれを見逃さず150騎を繰り出し、武田軍を撃退した。この期を見逃さなかった元就は吉田郡山城への救援を要請し、元就の弟・相合元綱や桂元澄・井上氏・坂氏・渡辺勝・福原貞俊・口羽氏・赤川氏・粟屋氏・児玉氏らを主力とする700騎と吉川氏からの援軍300騎を糾合し、武田軍に当たることとなった。
10月22日、有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、武田軍の勇将・熊谷元直率いる500騎と対峙した。連合軍は矢での遠距離攻撃で武田軍に対抗していたが、挟撃を恐れ、一気に武田軍に肉弾攻撃を開始した。元直は連合軍を少勢と侮り、正面からの攻撃に終始した。戦いの最中に熊谷元直は前線に出て、兵を叱咤激励していた。しかし運悪く矢が彼の額を射抜きそのまま落馬、首を吉川勢の宮庄経友に取られてしまう。
この知らせを受け取った武田元繁は激怒し、一部を有田城の包囲に残し、ほぼ全軍を率いて毛利・吉川連合軍を迎撃すべく突撃を命じたのである。連合軍は又打川まで進出していたが、多数の武田勢に攻撃され敗走を始める。しかし毛利元就の叱咤激励により反撃を開始、じりじりと戦線を押し戻す。この状況に歯噛みした武田元繁は、騎乗して自ら最前線に出て、又打川を渡ろうとした。その時、毛利軍の弓による一斉射撃を浴び、「項羽」ともうたわれた勇将・武田元繁は矢を身体に受け、又打川の河畔に転落したのであった。
この戦いで武田氏は武田元繁や熊谷元直、香川行景らを失い、その勢力を一気に失うこととなったのである。
この戦いは後に「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。
[編集] その後
初陣にも関わらず旧守護の武田元繁を討ち取ったことにより、安芸国人毛利氏の分家筋である毛利元就の名は一躍世間に広まることとなった。そして宗家の当主である幸松丸が夭折した後、毛利宗家を継ぐことになるのである。
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