奉天会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
奉天会戦 | |
---|---|
戦争: 日露戦争 | |
年月日: 1905年2月21日~3月10日 | |
場所: 奉天(中華人民共和国瀋陽) | |
結果: 日本の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | ロシア帝国 |
指揮官 | |
大山巌 | アレクセイ・クロパトキン |
戦力 | |
約250,000人 | 約370,000人 |
損害 | |
死者15,892人、負傷者59,612人 | 死者40,000人、負傷者49,000人、捕虜40,000人 |
奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた、日露戦争最後の会戦である。参加兵力は大日本帝国陸軍(日本陸軍)25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。奉天は中華人民共和国遼寧省の瀋陽。
クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万に動員令を出していたが、ロシア帝国内は血の日曜日事件のようにロシア革命前夜の状況であった。ニコライ2世への国民の忠誠心は後退していた。
一般的には、奉天を占拠しロシア軍を敗走させた日本陸軍の勝利と認識されているが、十分な追撃を行えなかったために、日本側の優勢的な引き分けに近いと評する者も多い。逆に言えば、日本陸軍が自制心を以てロシア軍の得意とする戦略的後退に引き釣り込まれなかったため、ロシア軍の惨敗のみが結果として残った戦いともいえよう。もし日本陸軍が追撃戦に移ったとしたら大敗北したことも考えられる。
目次 |
[編集] 奉天会戦背景
緒戦において危うい勝利を拾い続け、戦争全般ではなんとか優勢を保ってきた日本軍ではあったが、シベリア鉄道全線開通を4年後に控える大国ロシア帝国に対し、小国の持てる力の限界を超えて補給を続けなくてはならなかったため、進撃を続けるにつれ、兵站・兵力の不足の度は強まり、旅順攻囲戦の消耗をしのいだ後は、もはや戦争継続も危うい状況に陥っていた。
1905年3月、大山巌総司令官、兒玉源太郎総参謀長ら満州軍首脳は、奉天にこもるロシア軍に対して、趨勢有利の内に講和を結ぶ事を目的として、乾坤一擲の総力戦を挑んだ。大山巌は「本作戦は、今戦役の関が原とならん」と訓示し、今回の作戦が如何に重要なものかを将兵たちに認識させようとした。
満州の荒野を舞台に、60万に及ぶ将兵が18日間に渡り激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大会戦となった。
[編集] 前哨戦(2月21~28日)
2月21日、ロシア側は当初、日本側左翼(第二軍、特に秋山支隊が防衛する黒溝台付近)に対する攻勢を企図していたが、それに僅かに先んじて陽動としての最右翼の鴨緑江軍(朝鮮軍揮下)が進軍を開始し、清河城にこもるロシア軍を攻撃した。しかし、鴨緑江軍は、乃木第三軍より編入された四国善通寺第11師団と後備第1師団によって編成されており、しかも第11師団は現役兵の師団とはいえ、旅順攻囲戦によって現役兵を大量に失っており、応召兵により補充されていたため、攻撃にも精彩を欠いていた。このため、日本軍得意の夜襲をかけても、逆にロシア軍に夜襲されたりと、戦争当初に比べて格段に落ちた攻撃力であった。それでも清河城支隊を攻撃し、何とかこれを撃退した。しかし、クロパトキンが出した予備軍主力にぶつかり、戦線がたちまち膠着状態に陥った。
[編集] 包囲作戦開始(3月1日~5日)
戦いの主導権を握ったと確信した日本軍は3月1日を期して奉天に対する包囲攻撃を開始。作戦当初日本軍は陽動として、最左翼に浮上してきた乃木希典の第三軍・秋山支隊によってロシア軍右翼を攻撃させ、鴨緑江軍(ロシア軍左翼を攻撃中)と連動させることによって、ロシア軍の両翼を突き、その両翼に対し応援を出して手薄になるはずの正面に対して、乾坤一擲の大攻勢を展開する作戦意図を持っていた。ところが両翼で第三軍・鴨緑江軍が戦況を進展させている状況になっても、奉天正面では激しい突撃戦を敢行したにもかかわらず、ほとんど進展が見られないばかりか、逆にロシア軍に撃退されてしまう状況がずっと続いていた。この原因として、兵の突撃前に大量のカノン砲や28サンチ榴弾砲によって、猛射撃を行なったにもかかわらず、満州の大地が凍りつき、砲弾がはじかれてしまったことやこの当時使われていた黒色火薬の威力の弱さにより、ロシア軍のこもる陣地を砕くことができなかったことによる。確かに28サンチ榴弾砲は威力もあり、飛翔音も物凄かったが、その音に対する恐怖心ほど陣地への影響力は少なかった。このため、満州軍総司令部は作戦変更を行い、ロシア軍右翼に対して迂回を続ける第三軍に対し、大きく奉天を迂回・包囲させ、ロシア軍退路を遮断するとともに奉天への突撃を命令した。ところが、ロシア軍の総帥クロパトキン大将は、乃木第三軍の力を過大評価しており、最初ロシア軍左翼を攻撃した鴨緑江軍を乃木第三軍と勘違いし(第11師団が主力として編成されていたことが原因のひとつ)、これに対して大量の予備軍を補充しだしたが、乃木大将率いる本当の第三軍がロシア軍右翼を包囲するように大きく張り出した状況に変化したとき、ロシア軍左翼(鴨緑江軍正面)の応援に送った予備軍をまたさらに右翼(乃木第三軍正面)へ転進させだした。このため、乃木軍はロシア軍の正面を受け持ちつつ、奉天へ前進しなければならない状況が続き、連日ロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつもかろうじて前進を繰り返した。
クロパトキンを総司令官とするロシア軍は、先ほども述べたように難攻不落と触れ込まれていた旅順要塞を陥落させた第三軍の能力を過大評価しており、もし、第三軍が奉天後方に回り込み、哈爾浜=奉天間の鉄道遮断に成功したら、ロシア軍に対する物理的・精神的打撃は決定的であった。(実際の第三軍は、確かに創設時は精鋭ではあったが、旅順攻囲戦で大量に消耗しており、定員に満たない状態で、奉天会戦前に大量の人員の補充を受けなければ、軍としての行動を取っていけない状況にあった)また、クロパトキン将軍は乃木軍の兵力さえも過大に見積もっており、3万8千人ほどの乃木軍を約10万人と考えていた。
[編集] ロシア軍の後退戦術と日本陸軍の決戦主義(3月6日~8日)
しかし、ロシア軍は奉天前面を圧迫する日本軍の第二軍、第四軍、第一軍に対し、圧迫を与え続け、大量の損耗を出しつつも、3月6日になって奉天前面から徐々に計画的に後退を始めた。これはロシア軍正面を中央より第三軍のほうへ移す処置であった。このため第三軍及び秋山支隊は側面というより正面に対処する形勢になり大苦戦を強いられた。他の前線でもロシア軍が随時猛反撃を加えてきたため、日本側の被害は徐々に増大していった。
もしクロパトキンがこの時期に総反撃を命じたら、満足な予備軍さえ持っていなかった満州軍(渡満した全日本軍)が崩壊するという危機的状況にあったにも関わらず、満州軍の首脳部はあくまで全線に渡る総力戦の貫徹を指令し続け、ロシア側の強固な防衛線を前にして、日本兵は文字通り味方の死体の山を乗り越えて前進し続けた。そうした凄惨な状況が数日も続くにつれ、遂には銃を捨てて逃走する日本兵士の姿すら見られる状況に至り(大石橋の惨戦)、まさに満州軍の息は絶えようとしていた。
この間、兒玉参謀長は作戦自体の方針転換を決め、腹心である松川大佐と図って、野津第4軍と奥第2軍に奉天への前進を指令した。
[編集] 奉天会戦の結末(3月9日~10日)
3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは突如、奉天の被包囲を回避して鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令、これは満州軍が全く予期しなかった出来事であった。あろうことか奉天のロシア兵は軽い傷を負った状態で、総撤退を開始した。満身創痍の日本軍は3月10日、ほとんど追撃を行う余力もなく、つんのめった形で無人の奉天に雪崩れ込んだ。なお、この日は翌年に陸軍記念日と定められた。
奉天会戦の勝利は、奉天を制圧したという一事で日本側に帰したが、近代化以来の日本陸軍が得た勝利の内で最も苦いものであった(死傷者、日本側7万、ロシア側9万)。日本陸軍はロシア軍の「骨は切れなかったが肉は大きく切った」といえる。このロシア軍の損害は大きく、回復には秋頃までかかる状況であった。しかし、ロシア軍において、最も大きい損害は士気だったとも言える。鉄嶺までの暫時退却であったはずの撤退は大きく崩れ、軍隊秩序も失せ、略奪、上官への背命など軍隊としての体をなさないまでに落ちた。
しかしながら、ロシア軍にとって奉天失陥は「戦略的撤退」に他ならない。ナポレオン戦争でロシア軍が採用した伝統的な戦略的撤退であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退をそのように解し報じていた。このため、哈爾浜に逃れた25万将兵の総帥であったクロパトキンは解任され、代わりにリネウィッチ将軍が総帥として就任し、軍隊秩序を乱したものを次々に処罰していくことによって、元の状態を戻すことに腐心した。これはロシア軍にとって、敗北を認めたうえで、日本軍に反撃する意図が大きいことを表している。
しかも、ロシア軍の補給能力と日本陸軍のそれでは格段の差があり、この会戦後においては、たとえ同じ会戦がのちに生起したとしても、日本陸軍の能力は格段に落ちており、鉄嶺まで占領している日本陸軍としてはこの辺が限界であったともいえる。物資のみならず、人的補充においても、現に最後まで惨戦を繰り返した第三軍は損耗率(兵員の損害をパーセンテージで表したもの)が4割から6割近くあったにもかかわらず(とくに被害の大きかったのは第九師団(石川県金沢市)でその損耗率は65%にも及んだ)、その補給の予定すら立たない状況であった。特に第一線の将校、すなわち少尉から大尉程度の、前線指揮を執り兵の先頭を進む下級将校の欠乏は目を覆わんばかりで、開戦当初にいた士官学校出身の現役将校はこれまでの会戦や旅順攻囲戦などによって大量に損耗していた。このため、大部分が速成教育を受けた者ばかりになり、前線の指揮も満足に取れない者や、また予備役から召集された者も居り、たった一日の行軍で肩で息をするような老齢のものも多く存在するような状態になっていた。この状態は、奉天会戦開始前の鴨緑江軍所属の後備第一師団において、最早顕著に現れており、同軍は奉天会戦後期にはほとんど活動できない状況に陥っていた。
[編集] 奉天会戦の影響と日露講和への道
奉天会戦勝利の報に日本国中は沸き返り、更なる戦争継続の声が上がっていた。内地の大本営は奉天会戦の勝利によって、ウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画し始めていた。また、4個師団(第13・第14・第15・第16師団)を新編し、講和圧力のために、樺太島へ上陸・占領した。
これを知った大山巌満州軍総司令官は、兒玉満州軍参謀長と協議し、兒玉満州軍参謀長を急ぎ東京へ戻し、戦争終結の方法を探るよう具申した。目先の勝利に浮かれあがっていた陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張して渋ったが、元々日本陸海軍の継戦能力の低さをよく理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められる事となった。
ところが、ロシア側は、奉天大会戦に敗北したとは言っても、まだ半分の動員しか行なってはいないロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国のそれの約10倍)も、実力的にはまだまだ健在であり、またインド洋にはロジェストウェンスキー中将率いるバルチック艦隊はまだ温存されており、陸海軍ともに継戦能力はまだ高いものがあった。この継戦能力のある状態で日露の講和を促そうと、アメリカ合衆国大統領のセオドア・ルーズベルトが駐露大使のマイヤーに訓令を発し、ニコライ2世と謁見させたが、バルチック艦隊の実情をよく知らなかったロシア宮廷には、日本側より大きい戦力を持つバルチック艦隊が、奉天大会戦の勝利によって思い上がった日本に対して鉄槌を下すであろうという希望的観測から、終戦を渋る声があり、その結果、日本海海戦が起こるまで日露講和は頓挫する。しかし、5月日本海海戦の結果、海上での日本海軍の完勝が確定し、ロシアの極東における勢力拡大に反発するアメリカ合衆国の調停によって両国は交渉の席に着き、9月、休戦が成立。10月、ポーツマス条約の批准により終戦を迎えた。
[編集] 関連項目
[編集] 奉天会戦前
[編集] 奉天会戦後
[編集] その他関連項目
日露戦争 |
仁川沖海戦 | 旅順港閉塞作戦 | 鴨緑江会戦 | 南山の戦い | 得利寺の戦い | 大石橋の戦い | 黄海海戦 |