樺太作戦
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樺太作戦 | |
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戦争: 日露戦争 | |
年月日: 1905年7月7日~7月31日 | |
場所: 樺太(ロシアサハリン) | |
結果: 日本の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | ロシア帝国 |
指揮官 | |
原口兼済 | - |
戦力 | |
2個旅団 | 歩兵1個大隊 砲兵1~2個中隊 |
損害 | |
- | - |
樺太作戦(からふとさくせん)は、日露戦争最後の戦い。ロシア側の戦力が少なかったため大きな戦いにならずに日本が樺太を占領し、日露戦争を終結に導く駄目押しとなった。
日露戦争を最後まで戦い抜く国力がない日本側は、戦争初期からロシアとの講和を模索し、セオドア・ルーズベルト米大統領を仲立ちに何度も駐米ロシア大使カシニーに打診したが、ロシアの強硬姿勢で糸口がつかめない状態であった。日本海海戦の勝利で、講和がなると思われていたが、皇帝ニコライ2世は、戦いは劣勢であるが領土は失っておらず負けを認めるような講和はできないと強行な態度であった。そこでルーズベルトは、樺太を占領することで講和を進めることができると日本に勧めた。
日本の首脳部では樺太占領は消極的だったが、満州軍総参謀長の児玉源太郎陸軍大将、長岡参謀次長が積極的に主張し、明治38年6月17日に明治天皇の裁可が下り新設の独立第13師団に出動命令が下された。2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第3、第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部のアニワ湾に進入した。当時の樺太ロシア軍は歩兵1個大隊砲兵1~2個中隊程度と少なく、日本軍は7月31日には樺太全土を占領した。こうして日本は初めてロシア領を占領した。
その成果を背景に8月29日日露の講和が樹立され、樺太南部は日本領となった。
なお、第二次世界大戦末期の1945年にソビエト軍は樺太南部に侵攻し、これを占領している。
[編集] 参考文献
図説日露戦争、太平洋戦争研究会編 平塚柾緒著、河出書房新社、1999年
日露戦争 |
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