堀部武庸
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堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。四十七士の中では一番の剣客で、大石内蔵助に匹敵する人気を誇る人物。江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格だった。通称の安兵衛(やすべえ)の名で有名。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口伯耆守秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士溝口四郎兵衛盛政の間にできた六女。したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたる[要出典]わけである。姉が三人おり、長女ちよは夭折、次女きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣町田新五左衛門に嫁いでいる。
母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母溝口秋香のところへ送られて、秋香を母代わりにして三歳まで育てられたが、秋香が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。
しかし安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を負われたという『世臣譜』にある説が有力。
浪人後、ほどなくして父弥次右衛門が死去。孤児となった安兵衛は、はじめ母方の祖父溝口四郎兵衛盛政に引き取られたが、盛政もその後二年ほどで死去したため、姉きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られていった。元禄元年(1688年)19歳になった安兵衛は、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内源太左衛門正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った。
そんななか、元禄7年(1694年)2月11日、同門の菅野六郎左衛門(伊予西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。この決闘での安兵衛の活躍が江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望んだ。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、弥兵衛の思い入れは強く、ついには主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。内匠頭も噂の剣客中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。養父弥兵衛や妻ほりに思い入れができたのかもしれない。赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、馬廻役や江戸留守居役に就任して活躍した。元禄11年(1698年)12月には尾張藩主徳川光友正室千代姫(将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、浅野内匠頭からの弔問の使者には、この安兵衛が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた。
しかし元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。安兵衛は江戸詰の藩士奥田孫太夫、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、筆頭家老大石内蔵助に篭城を主張している。
赤穂城明け渡し後、安兵衛は江戸に戻り、仇討ちを主張する江戸の急進派の中心となり、京都山科に隠棲した大石内蔵助へ仇討ち決行を迫っている。浅野内匠頭の弟浅野大学を擁立して浅野家再興の運動をしていた大石内蔵助は、安兵衛らを鎮撫すべく原惣右衛門、大高源五を江戸へ送るが、原と大高は安兵衛に説得されて急進派に加わってしまう。このため、大石内蔵助自らが江戸へ下り、安兵衛たちを説得しなければならなかった。
大石内蔵助が主君浅野内匠頭の一周忌が過ぎても決起しないため、元禄15年(1702年)6月、安兵衛は上方に上り、大坂の原惣右衛門を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。7月18日、浅野大学の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的ととなると、大石内蔵助は京都円山に安兵衛ら同志を集めて会議を開き、仇討ちを決定する。
12月15日未明、47人の赤穂浪士が本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げた。
討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助の嫡男大石主税らとともに松平隠岐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、松平隠岐守屋敷にて切腹した。享年34。主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部文五郎言真が継いだ。
討ち入りから70年後の安永3年(1774年)堀部安兵衛の妻を名乗る妙海尼という老女が泉岳寺に庵を結んで、赤穂浪士の昔語りを始めて、江戸で評判になった。しかし、安兵衛の妻ほりは享保5年(1720年)に45歳で死去しており、この老女は偽物である。その墓碑は泉岳寺の浪士たちの墓のかたわらに残っている。
なお安兵衛は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残した人物でもある。安兵衛が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者細井広沢に編纂をゆだね、今日に伝えている。(岩波書店の近世武家思想に収録されている)
剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係があったりするせいか、堀部安兵衛は、四十七士のなかでも特に人気が高い。最近では安兵衛を主人公にした忠臣蔵ものも出てきている。