高田郡兵衛
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高田 群兵衛(たかた ぐんべえ、生没年不詳)は播州赤穂浅野家家臣。200石取りで江戸詰め。宝蔵院流高田派槍術開祖の高田又兵衛の孫の1人と見られ、郡兵衛も槍の達人と伝わる。名は『赤穂記』によれば資政(すけまさ)とあるが、他の書に記述は無く、事実かどうかは不明。
『赤城士話』によれば郡兵衛は吉次の嫡流高田又兵衛家当主の従弟にあたり、三河吉田藩主小笠原佐渡守長重に五人扶持で召し出されて仕えていたという。その後戸田山城守忠昌の推挙で浅野内匠頭に200石15人扶持で仕えたという流れらしい。
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城本丸御殿松之大廊下で吉良上野介に刃傷におよび、浅野内匠頭は即日切腹。赤穂浅野家は断絶となった。
同年4月、郡兵衛は堀部安兵衛、奥田孫太夫とともに江戸から赤穂へ赴き、大石内蔵助に篭城を主張している。
赤穂城明け渡し後に、郡兵衛は江戸に戻り、堀部安兵衛らとともに急進派として仇討ちを強硬に主張し、大石内蔵助に軽挙暴発を抑えられている。しかし、同年12月頃に郡兵衛は突然脱盟してしまった。伯父にあたるといわれる旗本内田三郎衛門元知により養子になり仕官の口の申し出を受け、討ち入り計画を口外しない条件でそれを受け入れたとされる。同志たちは郡兵衛の脱盟を大変に怒ったと云われる。
元禄15年(1702年)12月15日、大石内蔵助ら赤穂浪士47人が吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を討ち取り、首級を泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えた。郡兵衛は泉岳寺に祝い酒を持参して現れたが、浪士たちから罵声を受けて追い返されている。
『寛政重修諸家譜』によると、内田三郎衛門元知の家督を継いだのは内田三郎衛門正備(武沢氏からの養子)となっており、郡兵衛ではなかった。討ち入り後、赤穂浪士が英雄化するに及んで脱盟した郡兵衛の評価が地に堕ち、世間の悪評に耐えかねて追放したと見られる。郡兵衛のその後の消息は不明。浪士の切腹後、自害したとも言われる。