国分氏
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- 桓武平氏千葉氏流。以下で詳述。
- 秦氏改め惟宗氏の子孫。薩摩国に下向した執印氏の分家。薩摩国分寺の留守職を代々嗣ぎ、戦国時代には有力な国人領主となる。その後島津貴久の家臣となり、以後鹿児島藩士として続く。
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[編集] 発祥
平安時代末期の惣領千葉常胤には7人の男子がおり、庶子にもそれぞれ所領を分与した。五男胤通は、下総国葛飾郡国分寺領(現在の千葉県市川市国分)を分与され「国分」を称した。常胤は千葉氏を率いて治承4年(1180年)に発生した治承・寿永の乱では源頼朝に従う。続く文治5年(1189年)発生した奥州合戦にも参陣し、海道方面の大将として活躍した。この功により、常胤は陸奥国内伊具郡・亘理郡・宇多郡・行方郡・磐城郡の5郡などを恩賞として与えられた。胤通は宮城郡国分荘の他名取郡内に所領を得た。胤通が奥州の所領に下向したとの伝承もあるが、それは史実ではなく、胤通をはじめ国分氏当主は下総の本領に住み続けている。奥州の所領は庶子、または郎党などが代官として支配したと見られる。
[編集] 下総国分氏
胤通、及びその子孫は下総北部香取郡を中心に発展し、大戸氏、村田氏、矢作氏などの有力庶流を分出する。やがて嫡流家は衰退し、代わって矢作氏が国分氏惣領となる。
南北朝時代になると国分氏をはじめとする千葉氏一族の殆どは[足利尊氏]]に従っている。応永23年(1416年)に発生した上杉禅秀の乱では国分氏をはじめとする千葉氏一族の多くが上杉禅秀方につく。その後も国分氏は一貫して千葉氏嫡流家の麾下に従う。やがて千葉氏は後北条氏に屈服し、国分氏もそれに従う。小田原の役で小田原城が豊臣秀吉麾下の諸大名軍に包囲されると北条氏領内の諸城も秀吉軍に次々と攻め落とされるか接収されていった。国分氏の本拠地矢作城も徳川家康の軍に接収される。
国分氏は他の千葉一族と共に所領を没収され、子孫は鹿島神宮惣大行事家鹿島氏の養子となったり水戸徳川家や土井氏の家臣となった。
[編集] 奥州国分氏
南北朝時代、国分盛胤が奥州宮城郡に下向してきたという。子の盛経の代になると国分氏は積極的に留守氏、亘理氏、相馬氏などと衝突し、所領の拡大に努めている。しかし、盛経は応永19年(1412年)、亘理胤茂に居館を急襲され戦死した。その後、系図では盛忠が継ぎ、国分氏は続いている。しかし、その後の国分氏は秀郷流小山氏流長沼氏であるとの史料が複数存在し、現在では平姓国分氏は少なくとも盛経の代で滅亡したとみられている。
戦国時代にかけて国分氏は留守氏と激しく対立している。両者の対立を度々伊達氏が仲裁をしているが止むことがなかった。伊達氏内部の家督争いで発生した天文の乱では国分宗綱は伊達稙宗に、留守景宗は伊達晴宗に荷担し、激しい合戦を繰り広げた。
伊達氏は周辺諸氏に養子を送り込み、配下に治める政策を執っていたが、留守氏は度々伊達氏から養子を受け入れ、伊達一門と化す。国分氏でも天正6年(1578年)頃、当主国分盛顕が死亡した後、伊達晴宗の子政重が養継子として入り、国分盛重を名乗った。こうして国分氏は伊達氏の麾下に従ったほか、留守氏当主留守政景は盛重の実兄であったため、留守氏との抗争にも終止符が打たれた。
その後、伊達氏を甥の政宗が継ぐと、盛重は度々政宗と対立した。また、盛重は家臣団とも対立があり、有力家臣堀江掃部が政宗に盛重の悪状を訴えた。窮地に陥った盛重は慶長元年(1596年)3月、伊達氏を出奔して佐竹氏の下に身を寄せた。盛重の実子は伊達氏に残り、長子、次子は出家し、末子重広は古内氏の養子となり、岩沼に1万500石で封ぜられる。佐竹氏に仕えた盛重の名跡は佐竹義久の子が継ぎ、伊達左門宣宗を名乗る。また、盛重の養父に当たる国分盛氏の庶子郷六盛政弟駿河は伊達氏に仕え、それぞれ子孫が森田氏、横沢氏を称した。
[編集] 一族
数字は当主継承順位
- 国分胤通
- 国分胤茂
- 国分胤重
- 国分胤光
- 国分重胤
- 国分盛胤
- 国分胤輔
- 国分胤経
- 国分盛経
- 国分盛忠
- 国分盛行
- 国分盛綱
- 国分胤実
- 国分宗政
- 国分盛氏
- 国分盛顕
- 国分盛重
[編集] 薩摩国分氏
惟宗姓執印初代康友の二男の友久は、国分寺沙汰職(留守職)並びに天満宮別当職に補任され、水引城(国分城)に居城して国分氏を称する。15代友積に至り天正15年(1586年)豊臣秀吉の侵攻に伴い鹿児島に移り、以後鹿児島に居住する。(高250石・川内天神領は従前通り領治。家格小番)
- 国分友久 安楽寺領薩摩国高城郡内有諸・国分寺留守職・天満宮別当職。
- 国分友成 (左衛門尉)隠岐守・周防守・康村卒去後務執印職。(後・弟の康秀が執印氏を継ぐ)
- 国分友員 備後守。弘長2年務京都大番役。【友成之孫・友成―友行―友員】
- 国分友賢 備後次郎筑前先生掃部助。弘安4年蒙古襲来時、友賢有戦功・正応元年10月3日将軍家賞之賜筑前国早良郡七隈郷内。自同2年10月至正安元年奉太守忠宗公命属在勤於筑前国筥崎警固番役、以上八度也、其中自勤両回余者遣代官勤之。
- 国分友貞 (次郎)延文4年8月17日属宮方 於筑後国戦歿。
- 国分友重 (平次郎)掃部介。文和3年6月10日攻知色城、属将軍方、奉従太守師久公最前馳来有軍忠。
- 国分友豊 備後守。(弟・久成、羽島・豊後守)
- 国分友俊 (小次郎)越後守。
- 国分考友 (新左衛門尉)
- 国分朗友 (新左衛門尉)備中守。
- 国分規友 (豊次郎丸・平次郎・左衛門大夫)
- 国分朝友 (豊王丸・小次郎)越後守。
- 国分隆友 (豊次郎丸・平次郎)
- 国分定友 (豊千代丸・平次郎)筑前守入道。代々留主別當両職勤之。
- 国分友積 (豊次郎丸・平次郎)天正15年、秀吉公侵攻により家宅民屋焦土となり傅来之重器・文書等も亦多焼失。鹿児島邸上滑川に移住。
- 国分友知 (平次郎丸・宇助・十右衛門)父従移鹿児島。勤御兵具奉行。御振廻奉行。隅州大根占・薩州山川地頭職。
- 国分友相 (平吉・左京・彦右衛門)高・殿役奉行。
- 国分友清 (初友治・平吉・次郎右衛門)金山惣奉行。
- 国分友昌 (小次郎・三右衛門・十右衛門)実友政の子【友相の弟,友輝―友政―友昌:嫡子】。山奉行。
- 国分友章 (平次郎・八太郎・次郎右衛門)賜父遺跡家督。
- 国分友晴 (平次郎・平太郎・平助)賜父遺跡家督。
- 国分友字 (平五郎・平次郎)【友晴の弟】。天明3年12月25日14代定友までの位牌を国分寺に安置、青銅300疋寄進。
- 国分友弘
- 国分平太夫 …
新田神社所有の銅鏡に、花鳥文様で、中心の鈕の左側に『永仁二年三月十八日 左衛門尉友俊 施入之』と線刻の銘があり、永仁2年(1294年)か鎌倉後期の製作とみられる銅鏡がある。 「左衛門尉友俊」は、鎌倉時代、新田神社とも関係の深かった惟宗姓執印氏の分流の国分氏ではないかといわれている。 国分氏の8代目に友俊の名がみえる。また国分氏は代々「左衛門」「左衛門尉」を称している。 国指定有形文化財(大正7年4月8日指定)