固定観念
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固定観念(こていかんねん)は、固着観念(こちゃくかんねん)とも云い、心理学の用語で、人が何かの考え・観念を持つとき、明らかに過ちであるか、おかしいと思える場合、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、その考えを訂正することのないような観念を指す。
妄想型精神病における妄想のようなものも固定観念であり、また呪術に基づく迷信や、思想や宗教、文化慣習から来る固有の信念なども、常にそうではないが、固定観念となっている場合がある。
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[編集] 概説
日常的な表現で、何かの「思い込み」を人が持っているとき、これを「固定観念に捕らわれている」と表現することがあるが、厳密には言葉の誤用である。例えば、「鳥は飛ぶものである」という考えは、多くの人が持つ思いこみであるが、固定観念ではない。鳥であっても飛ぶことのない例、たとえば、ペンギンやダチョウを示されると、一般に人は思い込みから脱して、「飛ばない鳥もいる」という考えになる。ペンギンやダチョウの例を出して説明してもなお、色々な理屈を述べたりして、「鳥は飛ばない」という観念や自己の主張をどうしても変えない場合には、固定観念となっていると云える。
人は未知なことや、よく知らないことについて、実証的な根拠に乏しい「思い込み・先入観」を持っていることが多い。何らかの理由で思い込みに拘泥し、どのような例を出されても説明を受けても、思い込みを変えない場合には、この思い込みは固定観念になっている。
固定観念と混同され易いものに、ステレオタイプな考え・観念がある。ステレオタイプは元々、判で押したような考え方や類別を意味し、多くの人が同じものを共有している状態を表す。ステレオタイプな考えは、概ねにおいて単純で底が浅く、個性に欠けるのを特徴とし、タブロイド思考の一種だとも云える。
ステレオタイプが多くの人に受け入れられるのは、物事を単純化し類型化するため、複雑な思考の努力や反省が不要で、流行などに乗って安易に受け入れが可能となる為である。またそのことから、ステレオタイプを脱して、実情に則した認識を持とうとすると、知的努力や検証の手順が必要になり、多くの人にとって、このような吟味作業や反省は負担が大きく、そのため一旦受け入れたステレオタイプを考え直すということが困難であり、固定観念化しやすいのである。
しかし、固定観念のなかには極めて独創的で、他の誰も思いつかないような複雑で知的にも洗練されたものがある。他方、ステレオタイプはまさに紋切り型で浅薄である。ある思い込みを持つと、その考え等に固着して、容易に考えを改めないのが固定観念で、それに対し、ステレオタイプは、考えの類型性や底の浅さなどが特徴である。
また先入観を固定観念と呼ぶ例もあるが、多くの人にとって先入観は一旦持つと改めにくいものであるため、固定観念の様相を帯びるが、これも厳密には固定観念とは概念的に別のものである。
固定観念がこのように概念的に似ているが、実質的には別のものであると考えるべき事態に対し用いられるのは、日常語における慣用的な用例が存在するためである。またその背景を考えると、「固定観念」の本来の意味を把握しないで、日常的用例における「思い込み」に依拠しているということがある。固定観念という概念や言葉自体が紋切り型(ステレオタイプ)な理解をされている。
[編集] 文化相対的な固定観念
複数の文化において、それらが相互に異なるとき、特定の文化のなかでは自明的に妥当とされる考え方や観念が、別の文化に所属する人には、特定文化に固有な固定観念に見えることがある。また、実際に、別の文化を持つ社会に赴き、その社会のなかでは当然とされている考え方や価値観やものごとの把握に対し、反証を提示して異議を述べても、容易に相手の考え方や価値観が変化しないことがある。
このような「文化相対的視点での固定観念」は、情報の流通が世界的に広く行われておらず、様々な知識や文化や社会の多様性が知られていなかった時代や地域においては成立していた。しかし、21世紀に至り、他文化や他社会に関する知識や情報が、広く地球上の至る処について知られるようになった状況では適切なものではない。無論、自分の属する文化とは異なる社会や文化に関して無知であり、知ろうとする努力もしない人の場合は、なおこのような、先入観に基づく固定観念を持ち続ける状況はある。
20世紀の半ば、あるいは後半においてさえも、社会科や歴史の教科書で日本について説明して、ちょんまげを結った武士や町人の絵などを掲載し、あたかもそれが現代の日本の風俗であるかのような紹介をしていた国の例があるが、さすがに21世紀となって、そのようなアナクロニズムな文化的な誤解、あるいは固定観念は消えている。
[編集] 過去の社会での信念
しかし、現代人が勘違いし易いことの例に、過去の様々な社会で信じられ、真理とされてきたことを、現代の知識水準や視点から眺めて、固定観念と見なすことがある。
例えば、多くの古代の文化においては、人々は大地は平面であると信じてきた。大地が球状であるという考えも存在しなかった訳ではないが、日常的な感覚では、大地は平面と見なすのが自然であり、実際にそのように考えられてきた。現代の知識の水準からすれば、古代の人々は、「間違った観念」に固執していたことになる。仮に、大地は球体であると主張する人が、古代において人々に説いても、多くの人々は容易に考えを変えなかったであろうから、大地は平面だという考えは、古代人の固定観念であったように見える。
しかし、これを固定観念と呼ぶのは、固定観念の本来の意味からして間違いである。現代人にしても、地球が球体であるというのは、子供の頃からの知識や、書物の記述や、TV他のメディアの情報や、環境のなかで提供される知識を元に、ある意味でそのような「定見」を持っているのであり、古代人の大地平面観が固定観念だと云えば、現代人の持つ世界に関する「定見」もまた固定観念になる。
[編集] 政治的・文化的・宗教的な固定観念
情報や知識を国家などが作為的に統制し、コントロールして、国民に誤った知識を与えているようなケースは現代でも存在し、そのような国の国民は、他に比較吟味する情報がない為、政府が作為的に押しつけた物事の把握を、そのまま固定観念として保持する例がある。また、政府のコントロール以外にも、文化や宗教や歴史から、多くの人がある事柄を信じ込みたい場合、反証を示されても容易に考えが変化しない固定観念が構成されている場合がある。
[編集] 思想教育
知識やものごとの把握方法のコントロールが、政治的目的や文化的な背景から、意図的、あるいは無意識的に幼少期の頃から行われ、長い成長の過程を通じても継続的に行われることがある。このような場合、或るものごとの見方や価値観が、その人の人格や社会的な存在と切り離せないぐらいに密接に絡み合っていることになり、認識の過ちを指摘する情報に触れても、容易に考えや価値観が変化せず、固定観念となっていることがある。
国策として思想教育が行われた例は、旧ソ連における共産主義思想教育や、第二次世界大戦中翼賛体制下の大日本帝国、中華人民共和国において『洗脳』と称された思想教育などに典型が見出される。
思想教育はどこの国でも行っていることであり西欧諸国も例外ではないが、情報や知識を国家が統制するのとしないのでは、意味が異なる。またアメリカ合衆国においても、アメリカは世界で第一に自由な国であるというのは、文化的な思想教育になっており、固定観念化している。オランダや北欧諸国の方が、様々な意味でアメリカよりも自由な国である可能性が高い。
[編集] 宗教的信念
宗教的信念も多く固定観念であり、キリスト教の教義には妄想的なものが多数あり、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教などにも同様な妄想的教義がある。仏教でも大乗仏教を初めとして、妄想的な要素や信念があり、熱心な信徒であればあるほど、そのような教義や信仰は固定観念となっている。当事者にとっては、これこそが「真理」と考えられるが、信仰がない者や、別の信仰を持つ者の立場からは、反証を示されても考えを変えない固定観念である。
[編集] 社会と差別構造
インドにおいては現代もなおジャーティ・カースト制度が存在し、古代の四カースト制度も、最上位カーストのバラモン階級はこれを維持している。あるいは、公民権運動が広範囲な社会的影響を与えたアメリカ合衆国においても、かつて公然と主張されていた白人の優位思想が、なお現代においても存続している。
生物学的には、白人・黒人などの人種のあいだに知的発達や知的能力には差異がないことが証明されているにも拘わらず、黒人は先天的に知能が低いなどの偏見と差別に基づく固定観念が白人の一部にはなお存在している。
先進国とされる英国は階級社会でもあり、明瞭な形では現れないが、なお貴族階級と庶民階級の対立が存在する。一般庶民出身者であっても、英国貴族に列せられる例が存在しない訳ではないが、何世紀、あるいはそれ以上の長い歴史を持つ貴族の家系があり、彼らは欧州の王家や貴族家系と姻戚関係を多く持ち、一部の人々は、貴族と庶民は、血統的な観点から人種が異なるという固定観念を持っている。
差別意識や偏見は容易に解消できないものであり、それは特定社会における階級分化とも密接に関連する。富裕な者と貧困な者のあいだに差別が存在することがある。差別や偏見には、現実的な社会的経済的地位の分化が基盤にあることがあり、それ故、この種の差別意識は、社会構造や経済の構造からして、相互の境界を越えた階級間移動が困難となるに比例して、固定観念となる傾向がある。