古野伊之助
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古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年11月13日 - 1966年4月24日)は、通信事業経営者である。この場合、通信とはキャリア(通信事業体)ではなく、ニュース・エージェンシー(通信社)を指す。外国から情報を取り込む際に利用され、通信社が日本語のニュースNewsに組みなおした後に新聞社Newspaperまで運んでくれるのがキャリアである。
新聞と通信は加入者へサービスを提供する産業だが、消費者の発言力の弱い日本ではその歴史を語る上で、新聞はその企業化の過程について、通信は国の通信政策と通信技術の発展が中心となる。これらの観点より見た場合、1930年代後半から40年代半ばまで通信・新聞・放送・言論について古野は大きな役割を果たしたと言わざるを得ない。
ただ、その権力の源泉は軍人や官僚との結びつきだけではなく、国際社会で勢力を伸展させながらも孤立の道を進む日本の変化を捉えていた点にあり、それゆえ今日でも「策士」(他人を陥れる油断のならない人)または「国士」(国を代表する立派な人物)と呼ばれ、没後も毀誉褒貶が激しい。
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[編集] 経歴
- 1891年11月13日:三重県朝明郡富田村(現・四日市市)に織物業を営む古野家の長男として生まれる。
- 5歳で父を亡くすと一家は経済的に逼迫する。
- 1907年:上京。働きながら学費を稼ぎ、神田の英学校へ通う。
- 1909年:AP通信東京支局(支局長ジョン・ラッセル・ケネディ)の給仕。終生の友となる根岸寛一と出会う。
- 1911年:「AP」メルヴィル・E・ストーン(Melville E. Stone)の「国家代表通信社論」を聴く。
- 1912年:「AP」正社員(-1913年)。
- 1913年:早稲田大学専門部政治経済科を中退。東中野で養鶏所経営。
- 1914年:合資会社「国際通信社」(代表社員樺山愛輔)に入社。
- 1920年:「国際」北京支局に赴任(-1923年)。土肥原賢二、鈴木貞一、板垣征四郎と縁を深める。
- 1923年:外務省へ「通信自主権の確立」に関する論文を提出。「国際」の専務理事に岩永裕吉を推す。
- 1924年:「国際」ロンドン支局に赴任(-1926年)。
- 1926年:新聞組合「日本新聞聯合社」(専務理事岩永裕吉)に入社。東部管区支配人(-1931年)。
- 1929年:「聯合」内信局長兼任(-1931年)。
- 1931年:「聯合」総支配人(-1936年)。
- 1932年:奉天に赴き関東軍首脳部に会う。
- 1933年:米国大使館の「AP」支配人、「UP」社長の歓迎式典に出席。
- 1936年:「昭和研究会」理事。
- 1936年:財団法人「同盟通信社」(社長岩永裕吉)に入社。専務理事;-1939年)。
- 1938年:近衛文麿の使者として爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に赴く。
- 1939年:「同盟」社長(-1945年)。
- 1941年:「日本新聞聯盟」理事。新聞統制の主導的立場に立ち、東條英機の文化統制の諮問に預かる。
- 1942年:「日本新聞会」を創設。
- 1945年:貴族院議員に勅撰される。「同盟」解散。A級戦犯容疑者として逮捕。巣鴨刑務所に収容される。
- 1946年:不起訴。釈放される。公職追放の対象となる(-1951年)。京王多摩川駅近くに隠棲。
- 以降、一線を退くが通信界に隠然たる勢力を有する。公職としては日本新聞調査会会長、日比谷会館社長、東京タイムズ取締役、時事通信社取締役、共同通信社理事、国際電信電話株式会社の監査役、日本電信電話公社の経営委員会委員長が知られる。
- 1963年:日本新聞文化賞を授与される。
- 1965年:勲二等旭日重光賞を授与される。
- 1966年4月24日:心筋梗塞にて死去。築地本願寺にて葬儀がとりおこなわれる。(葬儀委員長松本重治)
[編集] 人物
1909年にAP通信の給仕として通信社の世界に入るが、入社動機は「外人と働けば外国語が上達するだろう」というものであった。若き日の古野は特権階級が専横する日本に絶望し、米国への農民移民を希望していたが、彼を日本に引き止めたのは1911年に来日したメルヴィル・E・ストーンの「アジアをして白人の専横から解放できるのは日本人だけである」とするアジテーションに魂を揺さぶられた為とされる。
資本の論理以前に「国の為に尽くす公正な通信社」設立に己の人生の目標を見た古野は、階層社会では己1人で世間に認められない点を知り尽くしており、名門出身の岩永裕吉を担ぎ「通信自主権の確立」、「費用分担形式の新聞組合の創設」、「国家代表通信社(National News Agency)樹立」に知謀をふるい、岩永の参謀として通信社の時代を作った。
満州国を専横した「二キ三スケ」(東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)と比べて、後藤隆之助、橋本清之助と並べ浪人タイプの「三ノスケ」と呼ぶ向きもある。「聯合」時代の社員は古野を「支配人」と呼ばずに古野さんと呼んでおり、後に至るまで人格的な器や未来を見通す目は伝説を生み尊敬の的となった。人間の心理を読み尽くし時期を待つ懐の深さを持つ古野は、無線電信という20世紀の科学発展の恩恵に浴している。
[編集] 新聞統制と古野
新聞統制の主導的立場に立った点から敵視する者も多い。大手新聞の社史も様々な要因から明確には伝えていないが、「古野悪者説」がほぼ一般的ではある。但、統制以前に中小新聞社が合併していた事、「1県1新聞」が地方紙の運営安定化の基盤となった事、全国紙の地方進出を、一時ではあったが挫折させた点は公平に見る必要がある。
正力松太郎との反目の基本には、新聞社(資本)が宿命として抱える拡大の論理、市場の占有への抵抗の意思も見て取れる。電電公社の経営委員会での発言でもあるように「受益者負担」、働いた分だけは働いた者が得る、使った分だけは使った者が費用を負担するという指針が彼の行動には貫かれているが、この点はロジックというよりは情緒の面、土方や博徒の親分のそれに類似しているといえなくもない。
[編集] その他
外務省では白鳥敏夫、陸軍の高官とも密接な関係を保つ。後に電通三代目社長となる上田碩三は終生のライバルと目された。1939年の岩永没後に同盟2代目社長として活躍。一方で検閲指導の下、虚偽の日本軍戦果のニュースを流す。占領地域の宣撫工作においては同盟情報網を駆使して協力しておりこれは批判の的となっている。日比谷公園での散策を好み、度々、時間が空くと市政会館(後の日比谷会館)の同盟本社を抜け出していたという。
少年時代に社会の底辺で辛酸を舐めたため、同盟育成会を電通の光永星郎社長らの協力で設立している。最新鋭の通信機器利用こそが通信社の命運を握るという信念があり、同盟では写真電送機(現在のファクシミリの原型)を開発。後にこの開発セクションは松下電器の通信機器部門に合流する。
敗戦後は巣鴨プリズンに送られたが無罪となる。同盟を解散させていた事や検閲下での被害者を主張した事が理由とされる。隠棲中は畑仕事を楽しんでいたが、1948年には競輪学校の用地買収の折衝の仲介をしている。これ以降もマスコミや政界から袋叩きにあったこの時代の競輪界に淡々と(『競輪50年史』)協力する。
この日本屈指の策士と面会する機会を得た若き日の中曽根康弘は、「村夫子のような人物」と意外に地味な印象にがっかりしている。国家通信主権時代の代表的人物と、電電公社民営化をすすめて市場中心のキャリア概念を日本で作った首相は、一瞬だけすれ違ったという事になる。
長く病んでいたが己を含めて通信社の時代を作った人間や団体の歴史を綴った大著「通信社史」を出版。前書では戦前同様に資本の論理を押し通そうとする大新聞の姿に警鐘を鳴らしている。
通信社史刊行会の資料となった報告書や手紙の書類の研究が進めば、新たな「古野像」が見つかるかも知れない。
[編集] 参考図書
- 『通信社史』(1958年:通信社史刊行会)
- 『古野伊之助』(1970年:古野伊之助伝記編集委員会)
- 中公新書『ニュース・エージェンシー―同盟通信社の興亡』里見 脩【著】中央公論新社 (2000-10-25出版)ISBN 4121015576