鈴木貞一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木 貞一 | |
---|---|
1888年12月16日 - 1989年7月15日 | |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1917年-1941年 |
階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 第3軍参謀長 |
賞罰 | 終身刑 (東京裁判) |
除隊後 | 国務大臣 (近衛内閣、東条内閣) |
鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称『背広を着た軍人』。
東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校、1917年に陸軍大学校を卒業。その後、参謀本部の支那班・作戦課で勤務し、上海及び北京に駐在。
1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東条英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。
1938年4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日興亜院政務部長に就任(~昭和16年4月)。1940年8月1日、中将に昇進。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任。1941年4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衞内閣国務大臣兼企画院総裁に就任。以後、第3次近衞内閣、東條内閣で国務大臣を務める。
1942年2月、大東亜建設審議会幹事長に就任。1943年10月8日、貴族院議員に就任し、内閣顧問、大日本産業報国会会長を勤める。
終戦後の1945年12月3日、A級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判で終身禁固の判決を受ける。1955年9月に仮釈放され、1958年に赦免された。
その後は千葉県成田市に居住し、静かな余生を送った。A級戦犯としては、最後の生き残りであった。
鈴木は、NHK特集「戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~」(1979年2月26日放送)に出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。