根岸寛一
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根岸 寛一(ねぎし かんいち 1894年11月1日 - 1962年4月27日)は、戦前の映画プロデューサー。1935年から日本映画の黄金時代である日活多摩川撮影所時代をマキノ満男らとつくりあげる。その後、満州映画協会理事を経て敗戦後はニュース映画を製作する日本映画社(日映)の社長として原爆記録映画を製作。日映を辞したのちは東急資本による東横映画、さらに東京映画配給株式会社(東映)の「第四系統」(東宝、松竹、大映の後発組の意)に参画するが公職追放により辞任。追放解除の頃には肺結核が悪化、斯界から引退した。
戦前から戦後まで古野伊之助、甘粕正彦、五島慶太という大物の影響力を利用しながら、迫害された映画人を徹底して庇護した根岸に対して現在まで「左翼」の評価が根強く残っているが日本プロレタリア映画人協会(プロキノ)の指導者の岩崎昶(映画評論家・製作者)は根岸を「明治生まれのFreidenker(独:自由思想家)」と呼び、根岸本人も「そうありたい」と答えている。(「根岸寛一伝」より)
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[編集] 出生から読売新聞記者時代まで
1894年(明治27年)11月1日、茨城県筑波郡小田村の文房具店の店主 立花寛治郎の長男に生まれる。地元の尋常小学校を卒業後、1909年(明治42年)に同郷の東京日日新聞の記者、相島勘次郎を頼り上京。米国連合通信東京支局(のちのAP通信)の給仕の傍ら神田の英学校に学ぶ。この給仕時代の同僚に終生の友となる古野伊之助がいる。
その後、叔父の小泉丑治の援助もあり早稲田大学の専門部政経学科に入学。1915年(大正4年)7月に大学を卒業後、読売新聞社の社会部記者となる。同僚の市川正一(1892年 - 1945年)・青野季吉と交流を重ねるが根岸は獄死した市川を終生敬慕したという。
[編集] 根岸興行部(1918~1923)・連合映画(1925~1927)時代
1918年(大正7年)、立花は叔父の小泉のすすめで新聞社を辞め、同郷の根岸浜吉率いる根岸興行部へ入社する。劇場で下足番をしていた頃に大学の同窓である鈴木茂三郎が前を通ったため「お前も手伝え」「そうだな」と二人で客の履物を揃えている。興行の世界を知り各界の人物との交流をもつ立花だが関東大震災(1923年)の災禍により打撃をうけた根岸興行部は松竹系列の傘下に入り、根岸は一時鎌倉へひきこもる。(1921年に根岸家次女と結婚して根岸姓となる)
1925年(大正14年)3月に作家の直木三十五に誘われて映画製作の「連合映画芸術家協会」設立へ参加。経営を担当するが2年で失敗、再び浅草へ戻り芝居興行に携わるも結局は振るわず借金を抱え1929年(昭和4年)千葉県の市川市に家族と引っ越すが差押えと転居を5回も繰り返し、市川時代はメダカ獲りをして暮らしていたとされる。惨状を見かねた古野伊之助は自分が役員をつとめる「新聞連合」(後の同盟通信社)の演芸部を新設、根岸を招く。
[編集] 日活多摩川撮影所時代(1935~1938)
1934年(昭和9年)、日活の社長である松方乙彦は親戚である岩永裕吉(「新聞連合」社長)の推薦により根岸の存在を知る。(なお、乙彦の兄弟である松方三郎と岩永、古野は近衛グループと目されている) 翌年の1935年(昭和10年)、日活に入社した根岸は10月に東京の多摩川に建設されたばかりの撮影所所長に就任。 ここから日活を辞する1938年(昭和13年)6月まで「多摩川の父」と呼ばれた根岸のもと内田吐夢監督の「人生劇場・青春編」や「土」などの日本映画の傑作や力作が怒涛の如く生み出される。 日活社内に根岸排斥の動きが高まると撮影所のスタッフから慰留されるが退職する。
[編集] 満州映画協会時代(1938~1945)
日活を退職した直後の1938年6月20日に、根岸は満州映画協会に理事として招かれ新京へ移住。その翌年の1939年(昭和14年)に関東大震災直後に大杉栄らを殺害した甘粕事件の張本人である甘粕正彦が満映の理事長に就任。元軍人の謀略家と元作家志望のヒューマニストの組み合わせは1945年(昭和20年)6月まで続く。 1940年に肺結核に犯されて根治の見込みがない事を知らされたのちも根岸は運命を甘受して入退院を繰り返す。健康を心配した古野 伊之助は自分が社長をつとめる社団法人「日本映画社」の専務理事として彼を招き1945年6月に根岸は日本に戻る。
[編集] 敗戦・日本映画社(社団法人・戦後株式会社へ再編)時代(1945~1946)
ニュース映画製作のための国策会社である日本映画社は1945年8月の敗戦で運営の転換を迫られる。12月、日映は株式会社へ再編。根岸は社長に就任するが人員整理問題で社内の混乱が生じる。その中でも演出家達は広島の原爆記録映画の製作を熱望。9月よりスタートした記録映画は翌年の4月に完成。数奇な運命をたどる映画「Effects of the Atomic Bombs」は現在、原版は日本の文部科学省が保管しているとされる。 財政的に苦しい日映は東宝との業務提携を選択し締結する。根岸は経営上の混乱の責任をとり1946年(昭和21年)9月に辞任。
[編集] 東横映画、東京映画配給株式会社(東映)時代(1946~1950)
再び浪人となった根岸は旧知の黒川渉三に誘われて五島慶太と接近。互いの利害が一致したこともあり根岸は日活多摩川時代からの相棒であるマキノ満男と東横映画(大泉映画、東京映画配給と合併し東映となる)の製作部門に腰を据える。当時の東横は東宝、松竹、大映と製作陣容も配給網も大きく離されていたが、根岸・マキノコンビは満映から引き上げてきた人間たちを東横に入社させて足場を固める。 1947年(昭和22年)に満映の理事にいた事で公職追放をされて一線を退く。のち追放は解除されたが健康状態が悪くそのまま自由が丘の自宅に隠棲した。1962年(昭和37年)4月、富士通川崎病院に入院。4月27日に亡くなる。69歳。
[編集] その他
- 妻は従妹で小泉丑治の次女。寛子(ひろこ)と晶子(あきこ)の娘二人がいる。
- 根岸興行部は小田村出身の根岸浜吉が、1887年(明治20年)に浅草公園六区に常盤座を建てたのが始まりとされる。浜吉は歌舞伎・新派劇・連鎖劇などの演劇から「活動写真」にも進出し浅草随一の興行師にのし上がった。大正初期は経営は浜吉から女婿の小泉丑治が受け持っていた。
- 伝記によると浅草時代の借金は莫大なものであったが毎月コツコツと返していったとされる。日活において松竹、東宝寄りの反対派に「根岸は借金返済のために会社の金を着服している」と非難されたが、実際には返済を始めてから約20年たって完済している。それも根岸の事情を察していた甘粕が満映の退職金規定に過分の上乗せをさせた為にできたものとされる。
- 根岸の義父である小泉丑治の息子、吉之助は本家が女性のみのため根岸の養子となり浅草「木馬館」を設立。根岸興行部の代表者としてこの木馬館(大衆演劇を興行)と木馬亭(演芸場)を経営した。根岸興行部とこの劇場二館は現在も営業している。なお、吉之助の息子(寛一にとっては義理の甥)が薬師丸ひろ子の「探偵物語」や中島みゆきの「夜会」で知られる映画監督の根岸吉太郎である。