交響曲第9番 (ブルックナー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
交響曲第9番ニ短調(こうきょうきょくだいきゅうばんにたんちょう)は、アントン・ブルックナーが取り組んだ最後の交響曲である。1896年10月11日に作曲者が他界したとき、終楽章は未完成のまま残された。
目次 |
[編集] 作曲の経緯
ブルックナーは交響曲第8番を完成させた後、直ちにこの作品の作曲に取り掛かった。
彼はベートーヴェンの『交響曲第9番』と同じ「ニ短調」という調性を選んだことについて、人々の反応を気にしたものの断固とした決意を持ったまたブルックナーはこの作品の献辞として、譜面にドイツ語で「愛する神に捧ぐ」と書いた。
ところが、ブルックナーはまたもや度重なる旧作の改訂に追われ、なかなか第9番に集中することができなかった。今度は交響曲第1番のウィーン稿に労力を費やし、初期作品の交響曲を(ブルックナーが試行錯誤の末に習得した)後期交響曲の様式に書き直している。
1892年12月に交響曲第8番が初演された後、ようやくこの曲の作曲に打ち込むことができるようになったが、彼の病状は一進一退を繰り返す。ようやく1894年11月30日に第3楽章を完成させた。第3楽章が完成する直前、ブルックナー本人がこの作品が未完成に終わった場合を予測して、その時には第3楽章の後に自作の《テ・デウム》を演奏するように示唆した。第3楽章の完成後、ブルックナーの病状は悪化の一途をたどり、ついに18年間住んだ4階建ての建物の住居で階段の乗降が不可能になったため、皇帝より「ベルヴェデーレ宮殿」の管理人用住居が彼に提供された。
1896年10月11日、最後の日の午前までブルックナーは第4楽章の作曲に携わったが、午後3時過ぎに息を引き取り、結局全曲を完成させることはできなかった。未完成に終わった第4楽章の自筆楽譜は、ソナタ形式の再現部の第3主題部が始まるところでペンが止まっている。現在多くの研究者はブルックナーがスケッチの段階において楽章全体を作曲し終えていたと主張しているが、現在相当数の草稿が失われたままである。
初演は1903年にフェルディナント・レーヴェの指揮によりウィーンで行われた。但し、後述のレーヴェによる改訂版による。
[編集] 楽器編成
ただし未完成作品である以上、この編成に変更が行われた可能性もある。
[編集] 楽曲解説
全部で4楽章から成るが、第4楽章は未完成であり、草稿として存在するにすぎない。スケルツォの配置(第2楽章を占める)と調性(ニ短調)は、ベートーヴェンの《交響曲 第9番》との共通点である。
[編集] 第1楽章
Feierlich, misterioso
ニ短調、2/2拍子。ソナタ形式の展開部と再現部を入れ子にするブルックナーの傾向は、この楽章において完全に具現化されている。この楽章の形式について作曲家のロバート・シンプソンは、「陳述、反対陳述、そして帰結」と言い表している。
第1主題は8つの動機によって形成される。主題というにはあまりにも序的要素が強く、研究者の中には頂点を築く63小節の第7動機の直前までを序奏扱いにする人も多い。なおこの後全曲に出てくる全ての動機はこれらの変形による。調性は極度に不安定で部分的に無調の部分も存在するが、ニ短調と変ハ長調などが中心となる。
第2主題は97小説から始まり、イ長調の慈愛に満ちた響きの基、ポリフォニックな展開を続ける。ここでも旋律は半音階的で2小節で12音全て使い切る部分もあり調性は不安定である。123小節と141小節にハ長調の動機が突如として現れるが長く持続せず、第3主題へ移行する。
第3主題は154小節から。まず主音と属音でのみできた動機が現れ、それを弦楽が転回系で応えるというものである。ここでは調性も安定しており、ニ短調である。クライマックスの後、穏やかなヘ長調となり提示部を終える。
展開部では第1主題部の各動機が著しい拡大をしながら発展し、再び第7動機で頂点を迎える。このときには弦の激しい音階を伴い3回繰り替えされ、続いて355小節からウェーベルンさえ想起させる極めて斬新なポリフォニックな音楽が続く。総休止の後、今度は400小節から第7動機が憐れみを請うかのように提示されるがこれも短い。
再現部では展開部のほとんどが第1主題によるためか第2,3主題のみとなり、これらもかなりの変形を受け、大変不協和なクライマックスの後、ワーグナー風の葬送コラールが現れる。
コーダ付近で《交響曲 第7番》第1楽章からのパッセージが引用される。最終ページにおいては通常の i-V の和声進行に重ねて、II度のナポリの六も使われ、i度やV度に対して軋るような不協和音を生じさせている。最後には全オーケストラによる空五度の和音(ニ・イ)の連打によりニ短調の要素が打ち消されニ調により終わる。
[編集] 第2楽章
Scherzo. Bewegt, lebhaft - Trio. Schnell
ニ短調、3/4拍子のスケルツォ。この楽章の開始和音は、20世紀の和声法の進展を予見するものとしてしばしば引用されているように、主調であるニ短調については調的に曖昧なところがある。ブルックナーの他のスケルツォ楽章に比べ、民族的な要素はもはやわずかな部分でしかない。
開始から42小節間の間はトリスタン和音の変形と分散による。表現主義的なオーケストレーションのもとニ短調と嬰ハ短調が対比的に扱われる。43小節からは突如として暴力的なトゥッティとなり聴衆を驚かせる。それはさらに線的書法へと変形し、頂点を迎える。すると今度は115小節からオーボエのコケティッシュな主題が登場する。これは民謡風の明るいものだが、せわしなくなり再びあの暴力的な主題が現れ、バーバリズムなコーダに向かう。
スケルツォの形式はA’A,B,B',Aの変形された三部形式と見ることができる。
トリオは遠隔調の嬰ヘ長調が使われ、トリオとしては異例の速さがとられている。ロバート・シンプソンはこの箇所におぞましさを見出し、ブルックナーが偽善的な個々人の振る舞いを書きとめていると標題的に解釈した。舞踊風の主題と、エレジーがロンド形式を織り成す。
[編集] 第3楽章
Adagio. Langsam, feierlich
ホ長調、4/4拍子。ブルックナーはこの楽章を「生への告別」と呼んだ。抒情的な静けさと畏怖の念をもって始まるものの、やがて先行楽章の不安な雰囲気へと引き戻される。コーダは、自作の《交響曲 第7番》をほのめかしている。この結末は、本作でも最上の部分である。形式は変奏曲形式とも再現部を伴わないソナタ形式とも取れる自由なものである。
冒頭第1ヴァイオリンが9度上昇しつつ、旋律はブルックナーが今まで《交響曲 第7番》などに用いた上昇音階に変容する。第9小節から第16小節にかけてブルックナー・ゼクエンツにより高揚し、第17小節からはフォルティッシモの頂点に達する。静まったと観るや第29小節からはヴァーグナー・チューバに荘厳なコラール風の主題が挿入される。第1楽章第1主題をほのめかしたこの主題をブルックナーは「生との訣別」と呼んだ。ここまでを第1主題部と見ることができよう。
続く第2主題は第45小節から変イ長調、弦楽に現れる。木管に受け継がれながらも第57小節からは変ト長調の新たな主題に発展する。やがてホルンの動機を加えつつ、最終的にはヴァーグナー・チューバが不協和音を奏でフルートがコーダに登場する伴奏音形を予告する形で総休止となる。
展開部においては幾分自由な主題展開を見せるが第199小節にくるこの部分最後の音楽はロ短調フォルティッシッシモの大変不協和なクライマックスとなり結尾和音では属13の完全和音となる。
コーダは第207小節から始まり調性は穏やかにホ長調へと収束していく。前述の通り第7交響曲の冒頭主題や第8交響曲のアダージョ主題をヴァーグナー・チューバで回想し静かに楽章を終える。
[編集] 第4楽章
Bewegt, doch nicht schnell
ニ短調、2/2拍子。複雑なソナタ形式。現存するスケッチによると、複雑な和音による序奏、副付点音符による激しい第1主題の後に穏やかな第2主題、第1楽章のコラールが明るい形で現れたホルンによる第3主題と続き、テ・デウムの基本音形に導かれて展開部が始まる。再現部は第1主題が複雑な二重フーガとなって高揚し、第2主題を経て上記のように第3主題部(テ・デウムの基本音形と組み合わされる…後記)まで来た所で自筆譜は途切れている。
ブルックナーは、そらで作品全体の構想を練り上げていたにもかかわらず、どうやら実際にコーダを書きとめようとはしなかったらしい。ブルックナー独特の作曲の習慣のため、このフィナーレの再構成は、他の作曲家の未完成作品を再構成するのに比べると、ある意味ではた易そうだし、ある意味では難しそうである。この楽章の大部分はほとんど完全にオーケストレーションされており、いくつかの主立ったスケッチさえあればコーダを間に合わせるには十分なのだが、しかし伝えられた噂によると、ブルックナーはコーダにおいて全4楽章の主題を綜合するつもりであったらしい。
ブルックナーの死後、回収業者が作曲家の自宅を漁り回って問題はいっそう厄介になった。フィナーレの草稿は散逸した後、アメリカ合衆国で発見された。オーストリアからはるばるワシントンD.C.へと渡っていたのである。現在でも自筆譜の断片の捜索は続けられているが、現在発見されている自筆譜以外の殆どは失われたと考えた方が自然である。
ブルックナーは、この作品を完成するまで生きられないと察知しており、自作の《テ・デウム》をフィナーレに用いるように提案した。これは、終楽章の全体にこの曲の基本音形が用いられていることによると考えられるが、この提案が実行されるのはあまりない。《テ・デウム》が合唱・独唱を伴うことを別としても、調性(ハ長調)・編成ともに異なることから、連続しての演奏に困難が伴うと考えられるためである。
[編集] 版問題
他の交響曲とは違って、ブルックナーはこの作品に複数の稿を作らなかった。しかし、ブルックナーが書いた原稿をめぐっていくつかの校訂版が存在しており、さらに、未完成のまま残された第4楽章を完成させようとする試みもいくつか見られる。
[編集] レーヴェ版 (1906年)
完成された3楽章のみを取り上げている。最初の出版譜であり、死後の初演で使われたのもこの版であり1932年まで、この版しか出版されてなかった。フェルディナント・レーヴェは、無断でふんだんに変更を加え、あまつさえ作品全体を改竄してしまっている。ブルックナーの管弦楽法やフレージング、デュナーミクに後知恵を加えただけでなく、ブルックナーの急進的な和声法(たとえばアダージョ楽章の属13の和音など)を旧式に引き戻してもいる。今日レーヴェ版は、ブルックナーの意図を不当に捻じ曲げたまがい物と見做され、実際に上演・録音されることはなくなっている。レーヴェ版の演奏は、ハンス・クナッパーツブッシュやフレデリック・チャールズ・アドラーが録音に残した。
[編集] オーレル校訂版 (1932年)
ブルックナーが本当に書いた部分を再現しようと試みた最初の校訂版。1932年にジークムント・フォン・ハウゼッガーの指揮によりミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団が初演した(両者は1938年にHMVにオーレル版の録音を残している)。その初演の演奏会では、交響曲第9番が2度演奏された。つまりレーヴェ版に次いでオーレル版が比較上演されたのである。オーレル版は、完成された3つの楽章しか取り上げていない。
[編集] ノヴァーク校訂版 (1951年)
実質的に1932年のオーレル校訂版と差違がない。あくまで第2次全集版として出版された。
[編集] コールス校訂版 (2000年)
完成された3楽章の新校訂版。ニコラウス・アーノンクールが録音した。ウィーンで新たに発見された筆写譜を参照としており、ノヴァーク版に比べ30箇所程度の修正がある。
[編集] フィナーレ完成版
ブルックナーの草稿を基に交響曲を完成させようとする試みは、たびたび繰り返されてきた。実のところはブルックナーのテ・デウムを第4楽章に代用するという提案も、第4楽章完成の口実として使われてきた。というのもこの提案は、(たとえばジョン・フィリップスなどの研究者によると)作者自身、この作品がアダージョ楽章で終わるのを望んではいなかったというように読めるからである。
[編集] キャラガン完成版 (1983年)
ウィリアム・キャラガンは、《交響曲 第2番》の校訂者でもある。
脱稿の翌1984年、モーシェ・アツモン指揮アメリカ交響楽団によってカーネギー・ホールで初演された。ヨアフ・タルミの指揮で、イギリス・シャンドス社に録音されている。
サマレ=マツーカ版やそれ以前の補筆完成版とともに1934年出版のオーレル校訂の資料不足かつ不正確なフィナーレ草稿を基にしているので、ブルックナー的でない。
近年、キャラガンは以下のように新たに発見された資料を元に改訂を行っており、2006年9月28日に東京ニューシティ管弦楽団が世界初演を行った[1]。
[編集] サマレ=マッツカ完成版 (1986年)
キャラガンの労作とは別個に、ニコラ・サマレとジュゼッペ・マッツーカが協力して1986年にまとめ上げた。後述のいわゆるSMPC版(サマレ=マッツカ=フィリップス=コールス完成版)に比べると、前述の通り資料不足のためか先行3楽章とはやや異なった書法となった。エリアフ・インバルによって録音されている。
[編集] SMPC完成版 (1992年)
この企画のために、サマレとマッツーカのチームにジョン・A・フィリップスとベンヤミン=グンナー・コールスが加わった。
第1に1986年のサマレとマツーカの二人は1983年から84年の調査によって今まで知られていない相当数のフィナーレ新資料を発見するに至った。ただし前述のサマレ=マッツーカ版ではそれが反映されているとは言いがたく、学会でも珍音楽扱いされていた。この状況を打開するためジョン・A・フィリップスとベンヤミン=グンナー・コールスが加わった(ただしマッツーカは多忙のため87年から離れることになった)。
そしてようやく1990年には徹底的な分析が試みられSMPC版が誕生した。これはクルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団のカメラータ盤に録音され脚光を浴びた。1996年にはフィリップスが単独で改定を行った。ヨハネス・ヴィルトナーの指揮によるナクソス・レーベルに録音されている。
2004年コールスの最新の調査によって、略記されたスケッチから完全に消えてしまったフーガ部の8ページ相当の内容を復元することが可能となった。ただしこの時点でフィリップスと他の2人は対立し結果としてフィリップスはこのプロジェクトから離脱した。結局サマレとコールスの2人で新版が出された。
[編集] 完成版による演奏
完成版のフィナーレは、たいていノヴァーク版の既存の3楽章と組み合わて演奏される。これらの中には、ブルックナーの遺した断片をも収録し、ブルックナーが実際に作曲したものがどれだけ実用化され、校訂者の想像力がどれだけ含まれているのかを、聴き手がじかに確認できるようにしたものがある。ヨアフ・タルミのキャラガン完成版による録音は、断片も含んだ音源の一例である。サマレ=マッツカ完成版によるインバルの録音を別とすれば、フィナーレ完成版を含む音源は、CD2枚分の長さになっている。
2003年にアーノンクールとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、フィナーレの断片つき(補筆なし)で《第9》完成版を録音したが、生憎コーダのスケッチを取り上げていない。いっぽうで、同年のヨハネス・ヴィルトナーの録音は推薦に値する。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ブルックナーの交響曲 | 未完成交響曲