モデスト・ムソルグスキー
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モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky, Моде́ст Петро́вич Му́соргский, 1839年3月21日 - 1881年3月28日 サンクトペテルブルク)はロシア5人組の一人に数えられるロシア国民楽派の作曲家である。キリル文字を表記どおりに発音すると、モジェースト・ペトローヴィチ・ムーサルクスキイのようになる。「ロシア五人組」の中では、「五人組」のプロパガンダとロシア民謡の伝統に最も忠実な作曲姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲によって、数々の革新的な作品を書いた。国民歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』はあまりにも有名。以前はリムスキー=コルサコフらによる改訂版が流布したが、現在では、作者自身のオリジナル版も出版され、また編曲の場合でも、綿密な校訂により、作者の様式により忠実な版が出回るようになりつつある。
目次 |
[編集] 生涯
プスコフ州カレヴォの富裕な地主階級に生まれる。ムソルグスキー家は旧家で、ルーリクの末裔との噂であった。6歳から母親の手ほどきでピアノを始め、それから3年後に家族や友達の前でジョン・フィールドのピアノ協奏曲が演奏できるほどに上達した。10歳のとき兄に連れられサンクトペテルブルクに上京、エリート養成機関ペーターシューレに入学。この頃アントン・ヘルケにピアノを学んだ。
ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で近衛師団士官候補生教練所に進むが、この間にも音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父親が出費して、短く没個性的なピアノ曲『Porte-enseigne Polka』が出版された。後にボロディンは17歳のムソルグスキー青年を回想して、「品の良い、ピアノを弾くディレッタント」と呼んでいる。1856年に教練所を卒業し、プレオブラジェンスキー連隊に就役するが、それまでに歴史学に興味を持ち、ドイツ哲学も学んでいた。
それから2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、とりわけダルゴムイシスキー、スターソフ、バラキレフ、キュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、少しの歌曲とピアノ曲のほか、たくさんの習作を手がけるが、内面の危機に襲われ(本人の弁によると、宗教的なものだったというが真相は不明)、1858年に軍務を退役する。1859年にグリンカの歌劇『皇帝にささげた命』のグレボヴォ公演を経験する。リャードフ少年にも出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。
このような啓発的な経験にもかかわらず、当時の作品は、外国の模範に依拠しがちであった。ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンの交響曲を含むドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。19歳から22歳まで作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲 Intermezzo in modo classico 』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。だが後者は、1860年10月から1863年8月までに書かれた作品の中では、唯一の重要な作品である。この理由は、おそらく1860年における主観的な危機の再浮上や、その翌年の農奴解放にともなう客観的な困窮のためである。結果として、ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォに過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの、運悪く果たせなかった。
この頃までにムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー Salammbô 』の作曲に取り組むが、やがて興味を失ってしまう。この頃にペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクの芸術的で知的な環境の中で、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。挑発的な作家ニコライ・ガヴリーロヴィチ・チェルヌィシェフスキーの芸術論「形式と内容は対極なり」も、その一つであった。そのような影響のもとにムソルグスキーは、どの程度まで確実に日常を「あるがままに」描くことができるかどうかはさておいても、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。
「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ホパーク 'Hopak' 』と『いとしやサヴィーシナ 'Darling Savishna' 』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。
文官としての職務は、決して安定していなかったし、保障されてもいなかった。それでもムソルグスキーはさまざまな地位に就き、早くに昇進さえしている。だが1867年になると「余剰人員」と宣告され、出勤しても無報酬であった。とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはバラキレフの気に入ろうとすることを止め、ダルゴムイシスキーに接近した。
1866年よりプーシキンの原作によって、ドン・ファン伝説の歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、「現実的でない」アリアとレチタティーヴォをやめ、その中間にあるシラビックで、歌に重きを置いたデクラメーションをよしとした。『石の客』に影響されて、1868年に急に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な、かなり平凡な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラメーションは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。自然主義的な声楽書法が、数ある表現原理の中で、しだいに唯一のものとなったのである。
『結婚』を放棄してから数ヶ月とたたないうちに、29歳のムソルグスキーはボリース・ゴドゥーノフの物語をもとにオペラを作曲するよう励まされる。これを実現するために、プーシキンの戯曲やカラムジンの歴史物語を集めて台本を構成し、翌年まだ林務局に在任中に、壮大なオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を書き上げた。1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否の憂き目を見た。初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだった。ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな「第2稿」を完成させるが、変更の結果は劇場の要求を大幅に上回るものだった。「第2稿」による『ボリス・ゴドゥノフ』は1872年(おそらく5月)に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。
1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。
この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなっていく。すでにバラキレフのサークルは解散しており、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係していると見なされても仕方のない「狂気の発作」も見受けられるようになる。そのうえ友人ヴィクトル・ガルトマンが死に、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。しかしながら暫くはムソルグスキーも創作力を保つことが出来た。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている。ゴーゴリ原作の歌劇『ソロチンスクの市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。
続く年月においてムソルグスキーは、段々と下降線をたどり始める。歌手や医師、俳優を含んだ著名人のサークルと新たに交際を始めたにもかかわらず、なかなか酒量が抑えられず、身近な人たちの相次ぐ死は、多大な心痛をもたらした。だが一時は、どうやら飲酒癖が抑えられたらしく、晩年の6年間でムソルグスキーの最も力強い作品、『死の歌と踊り』が作曲された。文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行なうことさえ許されていた。
しかしながら転落はとどまるところを知らなかった。1880年についに公務員の地位を追われる。ムソルグスキーの窮乏を知って、ある友人たちは、『ホヴァーンシチナ』を完成できるように寄付を集めようとし、別の友人たちは『ソロチンスクの市』を完成できるように同様の基金を設けようとした。『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達した。だが結局は、いずれの作品も完成には至らなかった。
1881年初頭に、ムソルグスキーはうちひしがれて、友人の一人に「物乞いするよりほかにない」と打ち明けており、矢継ぎ早に4度の心臓発作に見舞われた。ムソルグスキーは入院させられ、数週間のうちは元気付いたかのように見えたものの、状況は絶望的であった。イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれたが、これは作曲家の最期を伝えるものとなった。享年42。誕生日からわずか1週間後の死であった。
[編集] 作品
増四度を積み重ねる技法や、原色的な和声感覚、作曲素材の大胆な対比などは、さしずめ印象主義音楽や表現主義音楽の前触れとなっている。したがってムソルグスキーは現代音楽の先駆者といってよい。
ムソルグスキー作品の目覚しい斬新さは、20世紀半ばにショスタコーヴィチによって、作曲者の手法にあたうる限り忠実に、2つの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』と『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法がやり直されるまで、永らく見過ごされてきた。
現代のさる評論家の言を借りると、「ムソルグスキーの最も激しく、最も粗野な作品の一つ」である『禿山の一夜』は、ディズニー映画『ファンタジア』に利用されて、いっそう有名になった。
最も想像力に富み、しばしば演奏される作品は、ピアノのための連作組曲『展覧会の絵』である。この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺功をしのんで作曲された。19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていたが、こんにち最も有名なのは、クーセヴィツキーに委嘱されたラヴェルの編曲である。
ムソルグスキーは歌劇『ソロチンスクの市』を未完成のまま没したが、有名な舞曲『ゴパック』は、しばしば単独で演奏され、またラフマニノフのピアノ用への編曲で有名になった。
また、歌曲「蚤の歌」はゲーテ『メフィストフェレス』をストルゴフシチコフがロシア語訳した詞に曲をつけたバス独唱曲。
その他の作品では、3大歌曲集(『子供部屋』(1872年)、『陽の光もなく』(1874年)、『死の歌と踊り』(1877年))が有名である。
[編集] 舞台作品
- 歌劇「サランボー」(未完)
- 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」
- 歌劇「ソロチンスクの定期市」(未完)
- 歌劇「ホヴァーンシチナ」(未完)(第1幕への前奏曲が有名)
- 歌劇「アテネのエディプス王」(未完)
- オペラ・バレエ「ムラダ」(未完)
[編集] 管弦楽曲
- 「展覧会の絵」(「ラヴェル」編曲)
[編集] 映画やポップ・カルチャーにおけるムソルグスキー
ムソルグスキーの独特な荘厳な表現や高ぶった調子は、はなはだ直接的で覚えやすいため、映画やテレビに転用されていっそう有名になった。またプログレッシブ・ロックやクロスオーバー、フュージョンなどの分野にも影響を与え、アレンジが試みられた。
- ウォルト・ディズニー 映画ファンタジア (1940年) :禿山の一夜(リムスキー=コルサコフ版のストコフスキーによる短縮版)
- 映画 Asylum (1972年) :展覧会の絵 の抜粋と 禿山の一夜
- マイケル・ジャクソンのアルバム ヒストリー :禿山の一夜
- 映画サタデー・ナイト・フィーバー (1977年):禿山の一夜 の編曲版
- ウディ・アレン 映画Stardust Memories (1980年) :禿山の一夜(リムスキー=コルサコフ版)
- クリス・マーカー 映画Sans Soleil (1982年) :題名は陽の光もなく の仏語版
- エマーソン・レイク・アンド・パーマー:展覧会の絵 (アルバムおよびライブ・ビデオ)
- ドイツのヘヴィメタル・バンド「メコン・デルタ」は、『展覧会の絵』と『禿山の一夜』をカバーしている。
- レスラー、ジェリー・ローラーの入場テーマ :キエフの門
[編集] 関連項目
- 展覧会の絵
- 禿山の一夜
- ホヴァーンシチナ
- エマーソン・レイク・アンド・パーマー
- ボブ・ジェームズ