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シャルル6世(Charles VI le Fou、1368年12月3日 - 1422年10月21日)は、フランス・ヴァロア朝の第4代国王。第3代国王・シャルル5世の長男。親愛王、狂気王と呼ばれた(在位1380年-1422年)。
1380年、父のシャルル5世が食中毒で急死したため、王位を継承した。若年のため、はじめは重臣による補佐を受けたが、1388年から親政を開始する。しかし1392年、イングランド軍との戦いであるブルターニュ地方の戦いで敗戦したことがよほどのショックだったのか、発狂して精神異常者となってしまった。このため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、彼の叔父に当たるブルゴーニュ公のブルゴーニュ派と、彼の弟・オルレアン公を中心とするアルマニャック派にフランス内部が分裂し、お互いがフランスの主導権をめぐって争うことになったのである。
このようなフランスの状勢を見て、シェークスピアの史劇で有名なイングランド王・ヘンリー5世は、シャルル6世に近いアルマニャック派を支援しながら(ヘンリー5世の妻はシャルル6世の娘・カトリーヌ)、その裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして1415年、ヘンリー5世はシャルル6世に対して支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求してくる。あまりのことにシャルル6世を支持するアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじく、フランス軍は各地で連戦連敗し、1420年4月、アルマニャック派は屈辱的なトロワ条約を締結することで和睦せざるを得なくなった。これにより、シャルル6世の死後は王太子のシャルル(のちのシャルル7世)が継ぐのではなく、ヘンリー5世が継承することなどが定められたのである。
晩年にはシャルル6世の王太子であった子のルイとジャンなどが1415年、1417年に相次いで没するなどの不幸もあった。1422年10月21日、8月に没した宿敵・ヘンリー5世の後を追うように病死した。
シャルル6世の治世は42年の長きにわたったが、精神異常者となったことでその統治のほとんどは家臣団やイングランドに左右される時代が長く続いたのであった。