ルイ18世 (フランス王)
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ルイ18世、Louis XVIII(1755年11月17日 - 1824年9月16日、在位:1814年 - 1824年)は、ルイ16世の弟で、1814年に王政復古を果たしたブルボン朝の第6代の国王。
[編集] 生涯
国王になる以前はプロヴァンス伯と呼ばれた。妃はサルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘マリー・ジョセフ・ド・サヴォアだったが、2人の間に子供はできなかった。
1789年、フランス革命が起こるとイギリスに亡命する。1795年、革命政府によって幽閉されていたルイ16世の王子ルイ・シャルルが死んだという風評が流れると、ルイ・シャルルがルイ17世とも呼ばれていたことから、自らはルイ18世を名乗った。その後政権を獲得したボナパルトと王位を巡る駆け引きを起こしたが、ナポレオン戦争の開始によって有耶無耶となった。
1814年、ナポレオン1世が対仏大同盟軍によって追われ、その後のウィーン会議でイギリスなど諸外国からブルボン朝の王政復古が支持されたため、フランスに戻って即位した。ただし当初は、連合国から生死のはっきりしないルイ17世の摂政に過ぎないとされ、2年間は名目上の王位とされた。元々フランスの王位継承者候補は、スウェーデン王太子のベルナドットが推戴されていたが、連合国でも見解が分かれ、最終的には、フランスの全権を担ったタレーランとフランス上院の支持の元、ブルボン家の復位が果たされた事になる。ナポレオンが再起を図ってフランスに舞い戻ると、再びルイ18世はフランスを追われた。しかしナポレオンの復帰が百日天下に終わると、再びフランスに戻って即位し親政を開始した。
ルイ18世は、ルイ16世の時代に追放された貴族の復帰を助ける一方で、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取ることで国内の安定に努めた。また、財政面では世界で初めて会計年度の概念を取り入れてその適正化を図った。彼自身は温厚な性格であったが、王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)やアングレーム公妃マリー・テレーズ(ルイ16世王女)ら王党派の無慈悲さもあり、即位当初は白色テロを防ぎきる事が出来なかった。1823年には、同じブルボン家のスペインの政変に介入するなどブルボン家の安定を図った。ところが晩年に、後継者と目されていた王太子(アルトワ伯の子ベリー公シャルル・フェルディナン)が一国民によって暗殺されると、それまでの穏健政策を廃して絶対王政を復活させた。晩年に愛人や弟のアルトワ伯の政治干渉を招き、『赤と黒』の時代を生んだ。
1824年、死去。後を弟のアルトワ伯が継ぎ、シャルル10世となった。
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