オスカー・ワイルド
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オスカー・フィンガル・オフレアティ・ウィルズ・ワイルド(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde, 1854年10月15日 - 1900年11月30日)は、アイルランド出身の作家、劇作家。戯曲『サロメ』、『ウィンダミア夫人の扇』、小説『幸福の王子』、『ドリアン・グレイの肖像』などで知られる。ヴィクトリア朝時代イギリス文学作家のひとりである。その生涯は1997年に映画『オスカー・ワイルド』でも描かれた。
ダブリンにて、プロテスタントのアングロアイリッシュの家庭に生まれる。父ウィリアム・ワイルドは外科医で著述家、母親ジェイン・フランセスカ・エルジーは詩人。母親はしばしばサロンを開き、作家のシェリダン・レ・ファニュなどを招いたという。父方の祖先コロネル・デ・ヴィルデ(高名な画家ヤン・デ・ヴィルデの息子)はオランダ人で、オラニエ公ヴィレム(英国王ウィリアム3世)に従って17世紀にイングランドへ移住し、1690年7月1日のドローエダの戦いに勲功を立ててアイルランドのコンノートに土地を賜り、「デ・ヴィルデ」から「ワイルド」に改姓してアイルランド女性を娶り、アイルランドに帰化した人物である(平井博『オスカー・ワイルドの生涯』松柏社、1960年、3ページに拠る)。
1871年から1874年までダブリン大学のトリニティ・カレッジで学び、とりわけ古典ギリシア語に才能を発揮する。奨学金を得て1874年から1878年まではオックスフォードのモードリン・カレッジで学ぶ。
マグダレン・カレッジ卒業後にダブリンに戻り、女優のフローレンス・アン・レモン・バルコムと恋に落ちる。しかし彼女はブラム・ストーカーと婚約し、傷心のワイルドはダブリンを離れ、以後ほとんど戻らなかった。ワイルドはロンドン・パリ・アメリカなどで文学講演会を開催する。
1881年に初めての詩集を出版。1888年に童話『幸福な王子』を出版。
1895年、人気作家としての絶頂期に、スコットランド貴族アルフレッド・ダグラス卿(愛称ボジー)との同性愛がきっかけとなり、1895年4月5日、ソドム行為の罪で逮捕された。1895年5月25日に重労働2年の有罪判決を受け、ホロウェイ刑務所からペントンヴィル刑務所、ワンズワース刑務所、レディング刑務所にて服役。この間、1895年11月12日、破産宣告を受ける。
1897年5月19日に刑期を終えて出所、ただちに渡仏。1897年5月28日、『デイリー・クロニクル』紙に「マーティン看守事件、獄中の残虐行為」と題する論文を発表し、当時のイギリスの刑務所制度を批判。続いて1898年2月13日、長詩『レディング監獄のバラード』をC.3.3.という自らの囚人番号で刊行して反響を呼んだ他は何も書けなかった。過酷な刑務所生活で創作意欲を喪失してしまったためといわれる。
彼は晩年をセバスチャン・メルモスという変名で過ごし、貧困のうちにパリで死亡した。死後、1905年2月に『獄中記』(一部削除版)が刊行されたことをきっかけとして急に再評価が進み、1908年には13巻から成る全集がメシューン社から上梓された。
[編集] 著作リスト
- カンターヴィルの亡霊(the Canterville Ghost 1887)
- アーサー・サヴィル卿の犯罪(Lord Arthur Savile's Crime 1887)
- 謎のないスフィンクス(The Sphinx Without a Secret 1887)
- 幸福な王子(The Happy Prince and Other Stories 1888)
- ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray 1890)
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