A-26 (記録機)
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A-26は、日本陸軍と朝日新聞社が開発費を分担して、立川飛行機と東大航空研究所が開発・設計を担当し2機のみ製作された長距離飛行のための双発研究試作機。機体開発番号は「キ-77」。
通称A-26の「A」は朝日新聞の頭文字、「26」は皇紀2600年の26。00は三菱の「零」戦である。
1号機は昭和19年に新京飛行場(現 長春)を基点とする周回世界記録(未公認)を樹立したが、2号機は昭和18年にドイツへの連絡飛行中にシンガポールの空港を飛び立った後,インド洋上で消息不明となっている。
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[編集] 開発の経緯
皇紀2600年を記念し、東京 - ニューヨークの親善飛行に使われる予定で昭和15年から開発された。一旦は戦争激化により開発中止となったが、類まれな長距離飛行性能(アメリカ本土まで飛行可能)に注目した軍部の指示により開発が再開された。これは、日本陸軍が計画していた長距離戦略爆撃機キ-74の開発のためであり、主翼,尾翼など胴体を除く主要部品はそのまま転用できるように設計されていた。昭和17年に2機が完成している。
航研機開発の際のプロジェクト管理の失敗(研究者によるプロジェクト管理や工法を考えた詳細部の設計は無理があった)、スピードが遅すぎたなどの反省から現実的・実用的機体とするべく航空機メーカー主導による開発となった。メーカー選定にあたっては他のメーカーに比べて余力のあった立川が選定された。陸軍の試験場にも近かったことも理由の一つと思われる。
[編集] 機体構造
新技術として、胴体は与圧式を取り入れる予定であったが、技術的に難題が多く断念された。機体は100式司偵などのような流線型の美しい形状をしている。運動性能を損なうことなく、直進性能を上げるために付けられたドーサルフィンが胴体から垂直尾翼のラインをきれいに見せている。
主翼は国産初のインテグラルタンクを採用。工法開発のため、戦争のさなか、第一翼組立課のメンバーは三菱の大江(名古屋)で一式陸攻の組立を調査・研究し立川に戻った。しかし、1号機は燃料漏れが止まらず約250kgにおよぶ補修剤が使用された。2号機ではこの点を踏まえ、一度に重ねる外板の枚数やシールの仕方など工法を大幅に見直し燃料漏れはほぼ治まった。この工法を考え出したのは元建具職人であった。難題の主翼の製造には約460人が投入されていた。
エンジンは新規開発の余地はなく、減速比変更のみで中島製の「誉」系エンジンが使用された。エンジンナセルの形状が小さ過ぎてエンジンの冷却が困難となり,点火栓コードの焼損に悩まされ1号機は記録飛行前にオイルクーラーなどの改修を受けている。
[編集] 飛行
1号機は、昭和19年に満州で周回記録飛行を行い、16,435kmを記録している。ただし、戦時下の事であったため、国際的には未公認記録である。2号機は、昭和18年にドイツへの戦時連絡飛行に用いられた。日本とは中立関係にあったソ連を刺激しないために、南方からの迂回航路を取り、シンガポールからドイツ領を目指したが、途中で消息不明となっている。連合軍による撃墜記録も無いため、消息不明の原因は全く不明である。
[編集] その後
終戦時には甲府飛行場に放置されていて、とても飛べるような状態ではなかったが、アメリカ軍の命令により修理をして追浜から空母に載せられた。修理・整備を担当したのは後のプリンス自動車、田中次郎技師。輸送時は外山保技師が任にあたった(富士山をバックに飛んでいる有名な写真はこの時、外山技師が随伴機から撮影されたもの)。機体は輸送時の嵐により太平洋に沈んだとされている。
1号機は記録飛行前にもしばらく放置されていたことがあり、2度にわたる修理を受けていることになる。
また、第一翼組立課は終戦まで引き続いてキ-36、キ-74、キ-108などを製造し、終戦をもって解散となった。多くの職人は戦後、もとの大工や建具職、家具職人に戻った。現在、国立科学博物館や成田の航空博物館に資料が残っており、木村秀政教授の設計資料をもとに書かれた『悲劇の翼A-26』という本がある。また、第一翼組立課に所属していた、とある家には当時の主翼の工程図(桁、リブの配置や主脚構造の配置の図もある)などが残っている。