鹿子木親員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿子木親員(かのこぎ ちかかず、? - 天文18年(1549年))は戦国時代の武将。鹿子木重能の男。官位は三河守。肥後国飽田郡楠原城主。1536年に入道して寂心と号す。
1496年に茶臼山西山麓に隈本城(菊池重朝が出田秀信に築造させた隈本城:千葉城とは別で、千葉城はこの隈本城の東側)を築城し、以後ここを本拠とする。1516年阿蘇山衆徒と彦山衆徒(ひこさん。今の英彦山。修験道の道場として山伏らが住み、また戦国時代には秋月氏などに軍事的協力を行い、大友宗麟による焼討ちを受けた場所として知られる)が対立するとこれを仲裁し、豊福を巡る相良氏・名和氏対立の際も仲立ちした。
大友義鑑の弟重治の菊池氏相続後は田島重賢らとともにこれを補佐。菊池義武と大友義鎮が対立すると、1535年以降義武を離れて大友方に味方した(息子鎮有は義武方につき、1550年隈本城を逐われた)。
藤崎宮を修築して後奈良天皇の勅願の下賜を奏請するほか、焼亡した大慈寺の再建などを行う。和歌を好み、謡曲(平安期の女流歌人檜垣に因むもの)を作ったり三条西実隆より「源氏物語」を買い入れたりしている。1481年の万句連歌に参加している。
[編集] 関連項目
- 鹿子木氏
カテゴリ: 戦国武将 | 織豊政権の大名 | 1549年没 | 日本の歴史関連のスタブ項目 | 人名関連のスタブ項目