鳥居忠則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鳥居 忠則(とりい ただのり)は、江戸時代の大名。信濃高遠藩の第2代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 正保3年(1646年) | |||
死没 | 元禄2年7月23日(1689年9月6日) | |||
別名 | 彦右衛門(幼名)、鳥居忠常(別名) | |||
戒名 | 天高幽渕諦了院 | |||
官位 | 従五位下、兵部少輔、左京亮 | |||
藩 | 信濃高遠藩主 | |||
氏族 | 鳥居氏 | |||
父母 | 父:鳥居忠春、母:三浦正次の娘 | |||
兄弟 | 弟:鳥居忠辰、鳥居忠虎、揖斐政寿 | |||
妻 | 正室:森長継の娘 | |||
子 | 6男3女(鳥居忠英、鳥居忠瞭) |
1646年、初代藩主・忠春の長男として生まれる。父が1663年に死去したため、後を継いで藩主となるが、父同様に暗愚な藩主で、逸話として藩財政難のために木曽や松本の商人から借金してはそれを返還しようとしなかったために商人から幕府に訴えられたほどであったと言われている。
1689年6月、忠則の家臣・高坂権兵衛は江戸城の馬場先門の守衛を務めていたが、夜中に密かに旗本・平岡頼恒の長屋を覗いたという罪により逮捕され、主君の忠則にも連座として閉門を命じられた。ところが閉門中の同年7月23日に忠則は急死(一説では自害したとも言われる)。逮捕された高坂も取調中に主家に類が及ぶことを恐れて、舌を噛み切って自殺した。このため真相は闇の中となったが、幕府はすでに故人となっていた忠則の家臣団統制がよろしくなかったということから、忠則の後嗣であった鳥居忠英の家督相続を認めず、その所領を没収するに至った。
しかし、鳥居氏は鳥居元忠以来の名族であるという経緯もあって、幕府も取り潰すわけにはいかず、特別の計らいとして忠英に能登国内の内、鹿島・珠洲・鳳至・羽咋四郡の内の1万石を与えて能登下村藩を立藩させた。