襄陽
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襄陽(じょうよう)は、中国、湖北省北部にある大都市である襄樊市(じょうはんし)の漢水北側に当たる地名である。交通の要衝に当たり、古くから重要拠点として大きな都市が形成されていた。
漢水の中流域に当たり、その南岸にあって、樊城鎮と対峙している。古来より、関中(陝西省)、中原(河北省・河南省)、長江中流域という三つの重要な地域を結ぶ要の位置にあり、また、漢水沿岸の最大の都市として、交通の要衝の位置を占めていた。
有名なところでは、三国時代に魏・呉・蜀が争ったのは、この地であった。諸葛亮が寓居していたのは、襄陽西北郊外の隆中山である。
南宋の時期は、北方の金、元に対する前線基地となり、激しい攻防戦が繰り広げられた。元の南宋攻撃で、最も著名な回回砲による攻撃が行われたのは、5年間にわたる襄陽攻略戦(最終的には漢水封鎖により襄陽・樊城の連携を断って陥落)でのことであった。
明末期には李自成率いる反乱軍がここを占領して襄京と改名してここで政権樹立を宣言した。この襄陽自体は程なく明軍に奪還されたものの、襄陽の組織はそのまま新本拠地の西安に移されて、やがて明朝を滅亡させる事になる。
襄陽の河岸は船舶の停泊には不向きであり、商業は対岸の樊城の方が盛んであった。それに対して、襄陽は政治(行政)・軍事・教育の中心地となっている。