頼春水
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頼春水(らいしゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日))は、江戸時代後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。
幼名は青圭、名は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は号、別号に霞崖、拙巣、和亭、通称は弥太郎。
[編集] 略歴
- 安芸竹原(現在の広島県竹原市)の紺屋を営む富商 頼惟清(亨翁)の長子として生まれる。母 仲子(道工氏)は春水が幼少の頃死去する。
- 惟清は教育熱心な父親であり春水は4 – 5歳頃より京坂の学者平賀中南や塩谷鳳洲に就いて学問に勤しむ。
- 弟の杏坪、春風らも儒者となり、「三頼」と称される。
- 妻 梅飃(静子)も和歌に秀でていた。
- 明和元年(1764年)19歳になると大阪に遊学。趙陶斎に就き書を学び、片山北海の主催する「混沌詩社」に入り漢詩の創作活動をする。同時に北海から儒学を学ぶ。このころ「詩豪」と呼ばれるほど才能が開花した。
- 安永2年(1773年)大坂江戸堀(現大阪市西区)に私塾「青山社」を開く。
- 安永9年(1780年)長子山陽誕生。
- 天明元年(1781年)広島藩七代藩主浅野重晟に藩儒として招聘され、学問所を創立する。
- 天明3年(1783年)江戸勤番となる。
- 天明5年(1785年)広島藩の学制を朱子学(程朱学)に統一する。
- 寛政8年(1796年)次男大二郎病死。
- 寛政12年(1796年)長男山陽が出奔。
- 文化元年(1804年)山陽を廃嫡する。
- 文化2年(1805年)弟春風の子、景譲を養嗣子として迎える。
- 文化10年(1813年)藩より家禄300石を給せられる。
- 文化12年(1815年)景譲病死。
- 文化13年2月(1816年)春水死去。享年71。孫の聿庵が家督を継ぐ。
- 文政11年(1828年)山陽の編集で遺稿集『春水遺稿』が出版される。
[編集] 業績・評価
春水は謹厳、老獪な性質であり、策動家としての一面を持っている。自らが信じる程朱学をもって藩の学制を統一すると、のちに寛政の三博士とよばれる古賀精里、尾藤二洲、柴野栗山らの旧友と語り合って、彼らを古学から朱子学に転向させる。幕府執政の松平定信に働きかけて、朱子学を幕府正学とし、林家の私学であった昌平黌を官学に変更して三博士を送り込み、陰の影響力を持ち続けることに成功する。「寛政異学の禁」を実行させ、その信念を実現させた。
しかし、この法は多くの学者(冢田大峯や赤松滄洲など)から徹底批判され、定信の退陣を早める一因にもなった。にもかかわらず、春水自身は一切矢面に立つことがなかった。
- 「風格俊整、その人における邪を憎み、悪を嫌い、往々、その非を面斥する」
- 徳富蘇峰の批評「春水は世を渡る上においても、身を処する上においても、なんら間違いなく、なんら危なげも無く、実に安全第一の紳士的学者である」
- 篠崎三島の頼兄弟評「春水は四角、春風は円く、杏坪は三角だ」
春水は生前一冊の著書も著さなかったが、没後13年目の文化13年(1828年)に長男 山陽の編集によって『春水遺稿』(十一巻・別録三巻・付録一巻)が刊行された。出版費用は実弟の杏坪が安芸藩主に願い出て補助を受けた。主に春水の漢詩を年代順に掲載されている。別録に交友録的な回想記である『在津紀事』と『師友志』が掲載されているが、当時の春水の人間関係がわかる貴重な資料となっている。