降谷建志
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降谷 建志(ふるや けんじ、本名:古谷 建志(ふるや けんじ)、1979年2月9日 - )は、東京都出身の男性歌手。バンド・Dragon Ashのリーダー。ボーカル・ギター・作曲・作詞を担当。青山学院高等部中退後、代々木高等学校に再入学し、卒業。身長162cm。
愛称は「Kj」(ケージェー)、「けんじ」「けんちゃん」、「フルケン」。「Kj」は他の歌手やグループと共演する場合や、作詞、作曲のクレジットでも使用される名義でもある。以前はクレジットで「KENJI FURUYA」の名義を使用する事もあった。
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[編集] 人物
- 雑誌のインタビューなどは受けるが、放送メディアをあまり好まない。
- 洗礼は受けていないがキリスト教の精神を心の糧として生きており、人生に於いて最も重要な書は『聖書』である。キリスト教の影響を受けていると思われる歌詞も多く書いている。これは出身高校がキリスト教系の青山学院であったことが理由と言われている。
- ヘビースモーカー。好きな銘柄はKOOL。
- 父は、俳優、古谷一行。Dragon Ashとして成功する以前は、親の七光りに頼らず評価されたいとの理由からこの事実は隠されていた。名字を一字変えて芸名としているのもこれが理由。アルバムViva La RevolutionのTVCF、また、古谷が主演・プロデュースを務めた映画「手紙」(2003年)で親子共演を果たしている。
- バンドメンバーの桜井誠、BOTSは高校時代からの同級生。
- 降谷が着用した服などのアイテムはほぼ確実に品薄になり、その影響性は今なお衰えていない。
- 降谷のよく着用する服のブランドとしてGDC、DELUXE、CORE FIGHTER、COOTIEなどがある。
- 重度の色弱である。
[編集] 評価
- Dragon Ashのブレイク作となるViva La Revolution製作時は20歳であり、若くして日本のミクスチャーロックを牽引したという意見がある一方、「10年以上に渡って構築されてきた日本のミクスチャーロックシーンの上澄みだけを掠め取っただけ」という評価をされることも多い。それを証明するように音楽雑誌において、ミクスチャーの旗手として取り上げられることほとんどない。
- 初期の歌詞は、友情や家族愛を歌った。同時代の邦楽が男女の恋愛模様に重点を置いた歌が主流のため、特に異彩を放った。特に青少年からは「極めて感動的だ」「勇気を貰った」と高く評価された。一方、「所詮ブルーハーツもどき」「他愛無い尾崎豊ごっこ」、『Grateful Days』の歌詞では「若者で盛り上がるナショナリズムの象徴。実に右翼的だ」という批判も一部から噴出した。アルバムLILY OF DA VARREY以降はそういった曲は減り、英語詞も書くようになったが作詞能力には定評がある。
- Sugar Soul、スケボーキング、wyolicaらと「~Feat.Kenji」名義で共演しいずれもヒット。アンダーグラウンドで活躍していたミュージシャン仲間にスポットを当てたいという降谷の意向であったが、このヒットは当時時代の寵児であった降谷のネームバリューによるものが大きく、その後、彼ら単独名義でのセールスが沈静化した事も含めこういったやり方に対する批判も少なからずあった。また、当時の交際相手で高校の同級生であったMIHOを歌手デビューさせ自らプロデューサーを務めヒットしたが、破局によってすぐに沈静化する。こうした公私混同のやり方も批判される事があった。
- かつてZEEBRAを尊敬し、Dragon Ashではヒップホップとロックの融合をかかげた。降谷の希望により『Grateful Days』で共演となった。しかし、その後の降谷のサンプリングの多さ、パフォーマンスやフロウの模倣が原因で、ZEEBRAから厳しいバッシングを受ける。
- 『I ♥ HIPHOP』で、アラン・メリル作曲、ジョーン・ジェット歌唱の『I LOVE ROCK'N'ROLL』のメロディーを引用。事前許可は取ってあったようだが、オリジナル作者が予想外の売れ行きに抗議し、Dragon Ashはメリル及びジェット側に楽曲の使用料を納めている。『Grateful Days』のリフは、スマッシング・パンプキンズの曲『today』という曲をサンプリングしている。またライブで、日本では安全面から禁止されがちなモッシュダイブ・モッシュを容認しているという珍しいバンドでもある。
- Dragon Ashにおけるサウンドは海外のミクスチャーバンドの二番煎じ、という見方もある。だが、スローチューンに見られる日本らしいメロウなアプローチを同時になしている点で、「日本の」ミクスチャーバンドとして独自の作風を展開している。
- Dragon AshのメンバーBOTSとのユニットSteady&Co.・Fellows.Inc.等、多岐にわたる活動で、トラックメイカー/プロデューサーとしての評価を高めている。
[編集] 来歴
- 1995年、映画「ゲレンデがとけるほど恋したい。」に出演。俳優デビュー作となる。当時の芸名は「kenji」だった。
- 1996年、Dragon Ashを結成。同年6月に初ライブを行う。1997年2月21日にメジャーデビュー。
- 1999年からヒップホップ色を強調する。『Grateful Days』のPVで、アフロヘアーに鉢巻を巻いて、手で十字を切りながら歌う降谷の姿が話題となる。これにより幅広く認知された。
- その後Steady&Co.によるSugar Soulのプロデュースやwyolicaとの共演を通し、フィーチャリングというヒップホップの概念を世に広める。さらにTMCと名打った独自のイベントを開催し、日本の音楽シーンにその足跡を残す。
- 2001年3月AIR(車谷浩司)とコラボレートする。7月、BOTSとのプロデュースユニットSteady&Co.にリップスライムのILMARI、SBK(スケボーキング)のSHIGEOを加え、『STAY GOLD』を発表。
- 2002年、Life goes on、Fantasistaの2大ヒットシングルを発売する。同年、キングギドラのアルバムで名指しでディス(disrespect、非難・罵倒の意)される。この後、降谷は目に見えて寡作になる。ヒップホップではMCがディスに対してアンサーを返すことでお互いのスキルを磨くという概念があるが、それでも降谷はZEEBRAへのリスペクトの念から、キングギドラに対してアンサーを返すことをしなかった。このことを一生背負って生きていくとインタビューで語っている。
- 2003年、MONDO GROSSOの楽曲『SHININ’』に参加。この曲で傷ついたままでも音楽ができることが分かったと再び音楽活動を始める。
- 2004年5月にm-floのアルバム『ASTROMANTIC』に参加。楽曲は『WAY U MOVE』である。
- 2005年6月、「nido」を始動。旧友である武田真治などとのチームで、映画のサントラなどを制作する。
- 2006年4月、映画「Last Days」にインスパイアされたアーティスト達によるトリビュートアルバム『Last Days - Tribute To Mr.k』にLAS VELAS(Kenji Furuya+Shigeo)として参加。楽曲は『injurious』である。
[編集] 関連人物
友人、知人
- 渋谷陽一(ロッキング・オン代表取締役社長)
- 甲本ヒロト(ex. THE BLUE HEARTS、↑THE HIGH-LOWS↓、ザ・クロマニヨンズ)
- MONGOL800
- 武田真治(俳優、ex. nido)
- ユースケ・サンタマリア(タレント)
- MEGUMI(タレント)
[編集] 映画出演
- ゲレンデがとけるほど恋したい。
- けものがれ、俺らの猿と(友情出演)
- 手紙(父の古谷一行と共演)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の歌手 | 日本のヒップホップ・ミュージシャン | 1979年生