長尾輝景
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長尾 輝景(ながお てるかげ、?-慶長3年(1598年)?)は、安土桃山時代の上野国の武将。白井長尾氏の長尾憲景の嫡男。上杉輝虎(謙信)の一字を拝領して輝景と名乗る。
上杉謙信の死後、真田昌幸ら武田氏の勢力に攻められて居城の白井城を奪われると、父・憲景は家督を輝景に譲ってこれに屈した。ところが、天正10年(1582年)に武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、直ちに織田氏重臣滝川一益と結んで白井城を奪還した。ところが本能寺の変で信長が死ぬと、今度は北条氏について弟の鳥房丸(後の政景→景広)を人質とした。
ところが、翌年に父・憲景が没すると、家臣の中から北条氏政に寵愛を受けている鳥房丸を当主に迎えるべきであるとする意見が現れる。それは元服して政景と名乗った鳥房丸が天正13年(1585年)に帰国する事で一層強くなった。その後、政景と親北条派の重臣が輝景派の重臣を謀殺すると、輝景は親北条派重臣の出仕を停止するなど家中の緊張が高まった。
天正17年(1589年)、輝景が病気で倒れると、親北条派は強引に輝景を隠居させて政景を当主に立てた。ただし、同年暮に輝景が豊臣秀吉に対する備えの強化を指示する発給文書が存在するため、この家督継承を史実ではないとする説もある。いずれにしても翌年の秀吉の小田原攻めによって白井長尾氏は没落し、輝景は越後上杉氏の上杉景勝を頼ってこれに仕えた。
後に弟の景広(政景)も景勝に仕えたためにこれを後継者とする。慶長3年に景勝から所領安堵状を受けたのを最後に記録から姿を消して景広が当主として登場する為、この直後に没したと考えられている。