鍋島直之
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鍋島 直之 (なべしま なおゆき、 寛永20年1月18日(1643年3月8日) - 享保10年4月28日(1725年6月8日))は、江戸時代前期の外様大名。第2代肥前蓮池藩主。5万2600石(ただし蓮池藩は独立した藩ではなく佐賀藩35万7000石の内からの知行である。内分知行なので本来大名にはならないはずだが、幕府から特別に大名と認められていた)。幼名・通称は、千熊丸。官位は従五位下・摂津守(せっつのかみ)。
寛永20年(1643年)1月18日、初代蓮池藩主鍋島甲斐守直澄の嫡男として江戸麻布邸に生まれる。明暦2年に初めて将軍徳川家綱に拝謁。万治3年(1660年)には本家の佐賀藩主鍋島光茂にも拝謁して忠誠を誓う誓詞を提出した。寛文5年(1665年)父直澄の隠居により家督を相続し、第2代藩主となった。しかし蓮池藩主は、あくまで佐賀藩の内分から領地を持っているに過ぎないので、佐賀鍋島家では独立した分家大名家とは認めず、あくまで直之も佐賀鍋島家家臣として取り扱った。直之は徐々に鍋島本家への不満を高め、本家からの独立を企図するようになり本家との関係を悪くしていく。天和元年(1681年)直之が本藩の許可を得ずして独断で幕府に太刀と馬代を献上した際には鍋島本家から厳しく咎められた。直之はこれに対抗して他の支藩の小城藩主鍋島直能・鹿島藩主鍋島直条らと連名して支藩の独立性を認めない鍋島本家の専横を批判する抗議書を提出。しかし本家当主の鍋島光茂はこうした分離主義の動きは徹底弾圧の姿勢でのぞみ、天和3年(1683年)にはこれみよがしに「三家格式」なる法令を発令して、三支藩の藩主は佐賀鍋島家の家臣に過ぎないことを改めて内外に示した。ここに佐賀藩と蓮池藩の関係は親戚筋でありながら最悪なものに至った。その後も本家からの独立・関係改善に苦心したが、宝永5年(1708年)1月に高齢のために隠居し、弟で養嗣子の鍋島直弥に家督を譲った。享保10年(1725年)4月28日に蓮池で死去。享年83。鍋島家宗廟の宗眼寺に葬られた。
なお元禄12年(1699年)には勅使饗応役をつとめており、この絡みで大河ドラマ「元禄繚乱」にも登場した。このドラマの中で直之は高家吉良上野介から「鍋島などそんな大した家柄でもなかろうに不必要にでかい家紋をつけおって・・・・。勅使様のお目障りとなるだろうから家紋を片付けよ。」などと命じられ、家紋を侮辱されるという武士として最大の屈辱に耐え切れず、ついに刀を抜きかけるというシーンがあった。その後、主君直之の殿中刃傷を恐れた蓮池藩江戸家老の石井又右衛門が機転を利かせて吉良に賄賂を送り、ご機嫌をとって事なきをえたという内容であった。実はこの話は元禄11年(1698年)に勅使饗応役を命じられた津和野藩主亀井隠岐守茲親とその家老多胡外記の津和野名産茶菓子「源氏巻」にまつわる話なのだが、なぜかこのドラマでは鍋島直之と石井又右衛門に代えられていた。亀井と多胡ではなにかまずかったのであろうか。それとも鍋島にも同様に吉良のイジメを受けた逸話が地元にあるのだろうか。謎である。