那須政資
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那須 政資(なす まさすけ、永正4年(1507年) - 天文19年(1550年)?)は、下野の戦国大名。那須氏十八代当主。那須資房の子で那須高資・那須資胤・那須資郡の父。妻は、岩城常隆娘・大田原資清娘。
下那須氏の出身であるが、永正11年(1514年)に上那須氏が内紛により断絶すると、祖母が那須明資の娘だった縁もあり上那須家の当主として大関氏や大俵氏といった家臣達に擁立され、下那須家の父資房の隠居後は統一された那須家の当主をつとめた。滅ぼされた上那須家那須資永の実家白河結城氏やそれと結んだ岩城氏、さらに那須資親の縁者で上那須家の継承権を主張する宇都宮氏など近隣の勢力と対立し、しばしば戦いを繰り広げたが、岩城氏の娘を正室に迎えるなど融和策も講じている。
鎌倉以来の名家那須氏の戦国大名化を目指したものの、家中では嫡男の那須高資と後北条氏に与するかどうかで争って混乱を極め、烏山城を高資に奪われ家督を強奪されたが、上那須地方に拠って抵抗し、結果として那須家の再分裂を招いてしまった。宇都宮尚綱と組んで高資を攻撃したものの喜連川五月女坂の戦い(天文18年(1549年))で大敗を喫して自害に追い込まれたという。天文15年(1546年)没とする説もある。
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