逸見氏
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逸見氏(へみし、へんみし)は、清和源氏・甲斐源氏の一族。逸見冠者源清光の長子逸見光長に始まる。
鎌倉時代、甲斐源氏の嫡流の座を武田氏と争ったが、和田合戦で和田義盛方について北条氏と敵対したため没落し、鎌倉幕府において栄達した武田氏の後塵を拝しつづけることとなる。
室町時代、上杉禅秀の乱が勃発し、武田氏が禅秀方について没落したため、逸見有直は鎌倉公方足利持氏と組んで甲斐を実効支配し、甲斐守護の座を幕府に要求したが、鎌倉公方の勢力の増長を嫌う将軍足利義教に拒絶され、武田信元、次いで武田信重が甲斐守護として復活することになり、甲斐源氏嫡流の座を回復せんとする逸見氏の悲願は挫折を余儀なくされた。以降は一族の大部分は武田氏の被官化したとみられ、武田氏が守護職を得た若狭国、上総国などに逸見氏の名前があらわれるようになる。
戦国時代の逸見一族としては、小弓公方足利義明の家臣逸見祥仙や、若狭武田氏の被官でのちに織田信長に仕えた逸見昌経などが知られる。また逸見氏の庶流とされる一族として飯富虎昌の飯富氏や、安土桃山時代に活躍し、昌経の没後にその遺領の一部を継承した溝口秀勝がいる。
江戸時代、逸見四郎義年(1747~1828)は多摩3大流派の1つ甲源一刀流を興す(多摩3大流派とは、甲源一刀流・天然理心流・柳剛流の総称。)。 逸見四郎義年は逸見家の先祖、新羅三郎義光の名門の武家の血を受け継ぐ甲斐源氏の逸見家19代目当主にあたる。
逸見氏(いつみし)は、逸見(いつみ)姓の人物を示す言葉(逸見政孝など)。上述の逸見氏との関連性はない。
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