西村朗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
西村朗(にしむら あきら、1953年9月8日 - )は日本の現代音楽の作曲家。
目次 |
[編集] 略歴
大阪市城東区で自転車屋の息子として生まれ,地元で飯島嗣次らについた後、東京藝術大学大学院まで野田暉行、矢代秋雄に師事する。後、母校の芸大や尚美学園などで多数の後進を育て、現在東京音楽大学教授。2006年現在、NHK-FM「現代の音楽」の司会を単独で務める。武満徹作曲賞2007年度審査員に選ばれている。
[編集] 作風
本人の弁にて『「全ては適応不全」から始まった「独自のアジア的試み」』と解されることが一般的には多い。しかし、原則的にはオンビートのままで丹念にフルスコアを埋めるテクニックは「芸大アカデミズム」直系であり、20代前半に書法が完成していることなど驚くほど「早熟」な点が見逃せない。新ロマン主義的な「ノスタルジア」や「メディテーション」は『批判を免れない』と言う本人の弁とは裏腹に、現在でも聴ける高い完成度を示している。
本稿では「二台のピアノとオーケストラの為のヘテロフォニー」から第三期、「メロスの光背」以降を第四期、「室内交響曲第二番」以降を第五期と区分する。
[編集] 第一期(-1979)
「交響曲第二番」ではハープやピアノの用法に既に新しい音響の開拓が認められる。「弦楽四重奏のためのヘテロフォニー」でサルヴァトーレ・シャリーノに似た高音ハーモニクスが用いられる点は「当時の流行」でもあるが、その下を長いチェロソロが朗々と唄う点は従来の日本の作曲家には見られない「技法の折衷」性を秘めていた。この「折衷」性を第二期ではしまいこんでしまうが、第四期以降ではストレートに現れている。
ピアノ協奏曲第一番「紅蓮」は第一期の代表作であるばかりか、その後の全作品の傾向を決定した作品であるとも言われている。初演は園田高弘のピアノ、山田一雄の指揮で行われているが、「現代音楽のスペシャリスト」と「通常のクラシック演奏家」のどちらにも歓迎される性質は既にこの頃からあった。
[編集] 第二期(1979-1987)
新ロマン主義的な側面を多く持つ「ピアノ協奏曲第二番」のような作品から、自己の出発点を刻印した打楽器アンサンブルの為の「ケチャ」まで、アジア的な感性に頼った作品とそうでないものとで、はっきり作風が分かれている。この時代に「二台のチューブラーベルと二台のヴァイブラフォンのトレモロ」、「ピアノの単音トレモロ」、「周期的アクセントおよびクレッシェンド、ディクレッシェンド」など、後年の個性に繋がるイディオムを発見する。連作「雅歌」でヘテロフォニーに開眼し、以後はこの書法上で創作してゆく。
「ケチャ」はパーカッショングループ72の事実上の楽壇進出を決定づけた作品であり、海外でのCD録音や再演も多い。反復語法を多用したミニマル・ミュージック的側面を持つ曲だが、この頃にはかつて周期的反復を忌み嫌ったクセナキスが作曲した打楽器作品も反復語法に基づいており、同種の打楽器アンサンブル作品がこの頃に世界中で多く生まれていたことを付記しておく。その中でも「ケチャ」は数少ない成功のひとつである。
[編集] 第三期(1987-1995)
「二台のピアノとオーケストラの為のヘテロフォニー」はピアノパートの音符の多さなどから、新しい複雑性とも微妙にリンクしている。この作品の第三楽章でみられるパルス書法は、「鳥のへテロフォニー」、「星曼荼羅」でも有効に生かされており、この時期で「オーケストラを得意とする」作曲家像が確立する。これは60段から120段もの声部を駆使しなければならなかった前衛の世代の美学とは明らかに異なるものであり、新世代の登場とみなされた。確かにヘテロフォニーであれば、複数の声部を簡明に束ねることが出来、楽器法次第で音色置換も容易である。オーボエを三種とも使う、ソプラノサックスを好んで使うといった嗜好に、これらの戦略が現れている。
[編集] 第四期(1995-2003)
この時期からオーケストラの余韻を生かした淀む音響へ傾斜してゆき、ピアニシモのみの瞑想的な瞬間など、音響内部の深度を計る技法へ転じてゆく。1990年代には第三世代の到来など西洋前衛をオンタイムで追える人材も次々と出現し、従来のヘテロフォニカルな技法が既に新味とはみなされなくなった背景もある。が、そのような時代の中でも「デュオローグ」(ピアノはティンパニの音域を越えない)や「トッカータ」(バッハ作品の編集)といった室内楽作品ではコンセプチャルな実験を惜しまなかったことが、創作寿命を延ばす契機となった。
この時期には首都圏以外のオーケストラからの委嘱も増加するが、難易度を上げて現代音楽に慣れていないオーケストラの団員に苦労を強いるのではなく、可能性の範囲内で実験する新たな展開を見せ始めた。「モノディ<単声哀歌>」に、この試みが見られる。
[編集] 第五期(2003-)
「いずみシンフォニエッタ」のような小編成オーケストラの名人芸へ関心を移している。本人の弁では『細い筆で書きたい』とのことだが、実際には各声部を16分音符単位でコミカルに動かすなど、速い旋律的動句を線的に用いることに関心があるようだ。この徴候は北爪道夫の作風にも線的書法への傾斜という点で、似たような転換がある。すでにこの時期からヘテロフォニカルな語法は作品背景の一部に過ぎなくなっており、汎アジア性の追求が空疎なエキゾチズムにならないことを証明している。