サルヴァトーレ・シャリーノ
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サルヴァトーレ・シャリーノ(Salvatore Sciarrino,1947年4月4日 - )はイタリアの現代音楽の作曲家。シチリア、パレルモ出身。
目次 |
[編集] 序説
独学で作曲を学んでいたところフランコ・エヴァンジェリスティにスカウトされ、「オーケストラの為の子守唄」、「二台のピアノの為のソナタ」でデビューし、前衛イディオムからは導けない驚異の音色の魔術師と称えられた。ルイージ・ノーノは「鋭い音響の亡霊」と称えたが、編成によって彼が用いる音響には様々なタイプが存在するので、これは弦楽器の用法にノーノが惹かれたものだと考えられる。当時ちょうどツェルボーニ内紛の真っ只中にあり、たった一作をツェルボーニ社に預けた後は全作品がリコルディ社から出版されている。
オーケストラ曲でもTUTTIをほとんど使わず、沈黙から忍び寄る音響を得意とする点は全生涯に渡って変わっていない。演奏家の協力の下で個性的な楽器法を生み出すのを得意とし、ロベルト・ファブリッチアーニ、マッシミリアーノ・ダメリーニ、サルヴァトーレ・アッカルドなどの名手から様々な特殊奏法を生み出した。(これについては後述。)
[編集] 第一期(-1979)
最もシャリーノの作風を代表する典型的な作品が「弦楽四重奏曲第二番(1967)」であり、これは後に「六つの小さな弦楽四重奏(1992)」として再構成されたものの二作目に当る。20歳そこそこでしかなかった彼は、この時点で駒の後ろのピッチカート、舞うようなハーモニクス、聴取の難しい音程の飛躍などを存分に張り巡らすことができた逸材であった。凡庸な楽器法を一切使わない硬派の作曲態度が世界中で絶賛され、いくつかの受賞歴に輝くことになった。(代表的なものは「ダッラピッコラ作曲賞」)
通常、弦楽器の人工ハーモニクスは響きの安定の為に「四分法」しか用いない。しかし彼は「二分法」、「三分法」、「五分法」を従来の「四分法」と混ぜて用いて、ハーモニクスの質感の差異を際立たせる楽器法を得意とする。この楽器法は人気が高く、現在でも最も若手が模倣する楽器法の一つとなっている。この時期の彼の発案による「スパッツォラーレ」は弓を上下にではなく左右に奏し、さまざまな高次倍音を瞬時に沸きあがらせる技法として、「最もシャリーノらしい」特殊奏法と説明されることが多い。
「六つの奇想曲(1976)」ではこれらの楽器法がすべて出現するヴァイオリンソロ作品で、現在でもヴァイオリニストに人気の高い作品だが、演奏は至難である。1970年代には「大室内ソナタ(1971)」、「アスペレン組曲(1979)」などの代表作を次々と発表し、「これらの傑作から、ちっとも質的に進歩が見られない」という愚痴まで飛ぶほどの名声を確立する。
[編集] 第二期(1980-1991)
当時新ロマン主義が持て囃されているのをかぎつけると、早速彼はソプラノ、チェロ、ピアノの為の「ヴァニタス(1981)」でストレートな三和音、半音階進行、グリッサンドなどを投入して、聴衆の期待に答えることとなった。既に「アナモルフォジ(1980)」の時点でラヴェルを直裁に引用するなど、既に調性的な音色の侵食を避けられなくなっていたものの、彼はこれを短所とみなさずむしろ新たな未聴感としてとらえた。「ソナタ第二番」ではラヴェルの「夜のギャスパール」の音型を全曲に渡って埋め尽くし、反復の乱用によって聴き手を一種の飽和状態に陥れる。
80年代はフルートを中心に様々な特殊奏法が生まれた。「用いられていない運指を使って擬似トレモロ」、「舌をマウスピースに叩きつけるタングラムでパルス」、「ホイッスルトーンをアンブシュアの位置によって音色成分を変える」など、従来のフルート音楽の常識を様々に塗り替えた。これらの奏法は若手にしっかりと模倣されてしまい、現在ではシャリーノのオリジナルがフルート音楽の常識として捉えられるまでに至った。
この時期に書かれた「ソナタ第三番」では、無限ループ状にした素材から感覚的に部分を抜き取るなどのユニークな構成法が光り、極度の名人芸の披露が腕自慢のピアニストたちを喜ばせる結果となった。一つの試みが成功すると、すぐその路線で多作する傾向はそのままである。この傾向の為に彼のオーケストラ個展では「全く同じ音が」、「全く同じタイミングで」、「全く同じシチュエーションを共有する」作品が並ぶことになり、多くの批判を生んでいる。しかし、ここまでメチエを徹底させて創作に臨む同期の好敵手が存在しない為に、彼ばかりが目立つことになるのは当然であるという反論も存在する。
[編集] 第三期(1992-2004)
ようやく新ロマン主義の流行が終わると、彼もその流行の終焉を察知して「聞きにくい音響」に鞍替えした。「雲に捧げられた作品の間に」では「指がキーから離れる音」まで追求され、特殊奏法のマニエリスムからの脱却を図ろうとしている。マウリツィオ・ポリーニによって初演された「ソナタ第五番」はあまりのコーダの演奏困難さ故に「コーダを書き換える」処置に追われ、これが元でポリーニとの縁がこじれる。ポリーニのためのピアノ協奏曲(「薄暗いレチタティーボ」)も一曲書き下ろしたものの、以後はイギリスのピアニストのニコラス・ハッジスへピアノ独奏作品の紹介を全面的に託すこととなる。90年代には近作を中心に怒涛のCDリリースが行われ、創作のマンネリ振りへの攻撃はさらに強まることとなった。
「ソナタ第四番」は90年代に書かれた最も個性的な作品の一つであり、「トーン・クラスター」と「擬似アルペジョ」の二つの組み合わせのみで全曲が構成される特異なピアノ曲である。「音楽とは思えない素材」に対する固執はこの時期から強まり、「単一の楽器は特定の素材しか演奏しない」傾向が加速化する。「夜想曲」では沈黙の中を「擬似アルペジョ」がふらふらと舞うのみであり、痺れを切らして憤慨した聴衆の咳がCD収録されている。この作品は同一コンセプトで場合によっては19世紀的なオクターブも使われて現在までに6曲書かれたが、シチュエーション的には「同工異曲」の批判を免れない。当然のことながら、作曲者はこのCDリリースを「断じて認めない」そうである。
新たな音響への興味は止まず、「サックスのキークラップは『ほとんど聞こえないから100台持ってこい』」などという我侭すら通る大作曲家になってしまった。確かにキークラップを100台のサックスで行う作品は彼が世界ではじめて発案したものであり、このあたりで「どう書けば人は新しいと錯覚するか」というノウハウのみ卓抜してしまった観が強い。
[編集] 第四期(2005- )
長年の懸案であった来日が実現するが、作風にほとんど変化はない。「ヒマそうな楽器奏者ばかり」という評も見られるが、これは従来のオーケストラ語法で無駄に音符を埋める、凡庸な作曲家への無言の抗議なのだろう。「電話の考古学(2005)」では話し中のブザーから携帯電話の着信メロディーまで模倣するものの、70年代の才気の爆発振りには及ばず、現状維持で多作する側面のみが目立っている。最近では華美な音響を避け、曖昧模糊とした音響を薄く延ばす楽器法に傾斜してきている。
ここまで創作区分を行ってきたが「シャリーノはほとんど作風に変化はないために様式区分が無意味」という見解を出す研究者も少なくない。しかし、70年代で傑作を次々と書き上げた彼がマンネリ状態に陥っていることは衆目の一致するところであり、どの時期で代表作を仕上げたかを区分する必要性は、あると考えたほうが良いとも言われる。