蔡瑁
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蔡瑁(さいぼう、?-?)は、後漢末期の武将。字は徳珪。 『三国志集解』襄陽記によると、蔡諷の子である。
[編集] 略歴・人物
[編集] 略要
襄陽郡の人。荊州の有力豪族の一人で、伯母(蔡諷の長姉)は後漢の太尉・張温に、長姉は黄承彦に、次姉が劉表とそれぞれ嫁いだ。次姉が劉琮を産んだ経緯から、劉表の側近として重用された。劉表が荊州に地盤を築くことができたのは蔡瑁の功績だといわれる。また、姪が劉琮に嫁いだためその勢力は増大した。
劉表の死後、劉琮を後継者にするために同僚の張允と共謀し、劉琮の異母兄に当たる劉琦とその支持者である劉備を追い出し、劉琮の後継を実現させた。しかし、その直後に曹操の大軍が攻めてきたため、劉琮は戦わずして降伏する。蔡瑁は曹操に仕えて、従事中郎、司馬を経て、長水校尉を歴任した。やがて漢陽亭侯に封ぜられるなど高位高官を手にした(襄陽記)。これらの行動の背景には蔡瑁と曹操の個人的な関係によるものと思われる。『水経注』によれば蔡瑁と曹操は孝廉の同歳(同じ歳に孝廉に挙げらること。なお年齢に関係がないので成人前に挙げられることもあれば、50歳を越えて挙げられる者もいた)である。つまり、蔡瑁は天寿を全うしたのである。
また、『襄陽記』では蔡瑁の子孫は永嘉年間(307年~313年)頃まで、勢力を持ち繁栄したとされる。しかし、匈奴系とされる王如の南下によって殆ど滅ぼされてしまい、彼の系統は途絶えたという。このために現在では“蔡姓”と称する人物はいないとされている(一概にそのように判断はできない。南宋の政治家の蔡京が蔡瑁の末裔ともされる)。
[編集] 演義での蔡瑁
演義では、208年に曹操が呉の孫権を攻める際に水軍の都督として指揮を任されたが、周瑜の離間策に嵌った蒋幹の報告で曹操によって、張允と共に処刑されてしまう。なお、『蜀書』先主伝では、演義同様に蒯越と共に劉備の命を狙ったという記述があるというが、真偽の程は不明である。