神戸具盛
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神戸 具盛(かんべ とももり)
神戸 具盛は伊勢国北部の豪族神戸氏の当主で、この諱を名乗る人物は2名いる。
- 神戸氏第4代当主。伊勢国司6代北畠材親の子(5代北畠政郷の子という説もある)、神戸氏に養子に入り、神戸城を築城するなど、勢力を拡大した。号は楽三。
- 神戸氏第7代当主。本項で記述。
神戸 具盛(かんべ とももり、生没年不詳))は戦国時代の武将。織田信長の子信孝を養子とした。 神戸長盛の子、妻は蒲生定秀の娘。姉は織田信包の室。
祖父である1.の神戸具盛と混同されるため、神戸友盛と表記される事が多い。
[編集] 伝記
次男であった為仏門に入っていたが、永禄2年(1559年)兄利盛が23歳の若さで急逝したため、還俗して家督を継ぐ。
それまで神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属しており、本家の関氏とは不和であったが、具盛は関氏当主関盛信との関係を修復し、盛信と共に日野城主蒲生定秀の娘を娶り、近江の六角氏に付いた。
家督継承直後から近隣勢力の侵攻に何度も会い、長野氏との浜田合戦などで武名を上げた。
永禄10年(1567年)、織田信長による伊勢侵攻に会うが、重臣山路弾正らとよく防ぎ、美濃に不穏な動きのある 織田軍を撤退させた。しかし翌永禄11年(1568年)再度織田信長の軍が侵攻してくると、抗戦の利あらずとして信長の三男織田信孝を養子として迎えることで和睦した。
その後、織田家の部将として転戦し、六角氏攻略の際には、義兄である蒲生賢秀を降伏させるなど、手柄を立てる。
しかし養子である信孝を冷遇していたため、信長の怒りを買い、元亀2年(1571年)具盛は、近江日野城に幽閉され、神戸氏の家督は信孝が継承した。そしてそれに抗議した山路弾正をはじめ、一族や家臣の多くは殺害された。
1582年、信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、具盛は許されて神戸城近くの澤城を隠居所とした。
信孝敗死後、織田信雄の家老、林与五郎が神戸城主となり、嫡子十蔵に信孝の室(具盛の娘)を嫁がせ、神戸氏を名乗る。
その後、神戸与五郎らが蒲生氏郷らの羽柴軍に敗れ美濃へ落ち延びると、具盛は織田信包を頼り安濃津に逃れ、同地で死去したと言われる。
[編集] 参考文献
- 三ツ村健吉 註訳『勢州軍記 上』三重県郷土資料刊行会、1984年
- 三ツ村健吉 註訳『勢州軍記 下』三重県郷土資料刊行会、1987年