浅井亮政
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浅井 亮政(あざい すけまさ、淺井 亮政、延徳3年(1491年) - 天文11年1月6日(1542年1月21日))は浅井氏当主。実父は浅井氏の庶流 浅井直種。義父は浅井氏の宗家である浅井直政。妻は直政の女浅井蔵屋。子に鶴千代(田屋(浅井)明政室。海津殿)(生母:浅井蔵屋)、浅井政弘(生母:浅井蔵屋)、松市御料(三田村定頼室。生母:尼子馨庵)、浅井高政(生母:尼子馨庵)、浅井忠種室(生母:尼子馨庵)、浅井久政?(※生母:尼子馨庵?<養母か?>、浅井千代鶴女(六角宗能(親泰)側室)?)、秀政(長頼)、山城守(実名不詳)がいる。
※『六角佐々木氏系図略』、「浅井過去帳」より
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[編集] 生涯
[編集] 浅井宗家の継承
出自は北江の国人 浅井氏の庶流 浅井直種の子であった。しかし、嫡流の浅井直政に嫡男がなかったため、亮政が直政の女浅井蔵屋と婚姻し、浅井宗家を継承した。
[編集] 主家・京極氏と対立
浅井氏は守護・京極氏の家臣であったが、守護 京極高清が家督を次男である京極高吉に譲る意向を示すと、嫡男の京極高広を推す浅見貞則と亮政は主君高清と対立。京極氏の家督をめぐり主従で相争う内紛状態に入った。この背景には、当時家臣の中で最も発言力があり、専横的な政治を行っていた上坂信光が次男高吉を推し実質的に家中を支配しようと企んでいたことが挙げられる。貞則と亮政は主君高清、ならびに信光を尾張国に追い、国人一揆を形成して、国人一揆による衆議により京極氏の家政を執ることとなった。しかし次第に専横を極めたのが有力国人 浅見氏であった。国人一揆の盟主であった浅見貞則は亮政ら他の国人衆に図ることなく領国支配を行ったため、亮政は他の国人衆らと共に浅見氏を追放、京極家の筆頭となることに成功した。
[編集] 六角氏との争い
京極家中で実権を掌握すると周辺国人衆を取り込み次第に勢力を拡大させ、ついには守護であり主家でもある京極氏をも圧倒するに至る。しかし、そこに立ちはだかったのが、近江源氏の嫡流で京極氏の本家筋でもある、南近江半国守護の六角定頼であった。この頃六角氏は将軍を庇護したりするなどし、権力闘争で疲弊した室町幕府内での勢力拡大を目論んでいた。また、同時に南北に分かれていた近江国全域での支配の確立を目指していた。そのような時に江北で浅井氏という新勢力が台頭してくることは背後に不安を抱えることになり、決して好ましい状況ではなく、また同時に江北の地を支配する絶好の機会でもあった。そこで六角氏は庶家である京極氏に北近江半国守護の地位を回復せしめる名目で反亮政派の国人や京極高吉派の国人を中心に亮政討伐を開始した。亮政は越前や美濃へ幾度かの逃亡と復帰を繰り返しながらも、六角氏という異勢力の侵攻に所領喪失の危機感を持った国人衆をまとめ逆に基盤の強化に成功した。
亮政の勢力が拡大するにつれ相対的にその影響力が低下するのは守護職である京極氏である。そのことに不満を募らせた京極高広は家督相続で対立した父京極高清と和解、逆に同盟を結び六角氏の支援を受け、上坂氏をはじめとする反亮政派の国人衆らとともに亮政と対立するようになった。しかし、天文3年(1534年)、亮政と京極父子は和解し、以後小谷城の京極丸に居することとなった。
一方的に亮政と和解した高清・高広父子を利用できなくなった六角氏側は、翌年、高吉を支援して再び江北に侵攻を開始した。この間、亮政は六角氏との抗争を繰り返しながら小谷城を拡充し、また、反亮政派の有力国人を討つなどして浅井氏の支配基盤をより確実なものとした。しかし、天文10年(1541年)、再び高広が亮政に反旗を翻し対抗するようになった。翌天文11年、亮政は六角氏、京極氏との争いの決着をみないまま病没する。没後、浅井氏の家督相続をめぐって実子浅井久政と婿養子田屋明政が争うようになり、明政が高広と手を結んだため久政は六角氏へ臣従する道を選ぶこととなる。
[編集] 朝倉氏と同盟
そして亮政はさらに領内の支配権を確立せんと、早々に事実上の越前守護であった朝倉氏に同盟を申し込み、この同盟を成功させた。 当時、守護格であった朝倉氏が国人上がりの浅井氏と対等な同盟をすることは考えにくく、朝倉氏を盟主に仰ぐ同盟を締結することが、常識的な理解であった。しかし、そこは主家独立を果たした才覚ある亮政である。外交力により、朝倉氏に寸分違わぬ地位を認めさせ、強固な同盟としていった。 この浅井朝倉の同盟締結が、六角・京極連合軍との決戦の際に朝倉方から朝倉宗滴という強力な客将を迎えてこれを撃退。
但し、室町幕府や守護勢力が未だ健在であった当時、守護職も大義名分もない亮政に独立を許すほど、当時の封建制は崩れていなかった。亮政は名目上 の守護として主家の京極親子を呼び寄せ、傀儡として懐柔することに成功。小谷城内に京極丸という郭を設けて住まわせた。 これによって浅井氏は大義名分と勢力基盤双方の上で湖北支配を確立した。さらに、亮政は朝倉とは敵対関係にある本願寺を扇動して、六角領内に一揆を起こさせ、侵略の脅威を退けるなど、智恵で領国支配の危機を乗り切った。
亮政は浅井氏の土台を築き上げたが、同時に朝倉氏との同盟という後の浅井氏の運命を暗転させる光と影も作り上げてしまったのである。