范増
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
范 増(はん ぞう 紀元前279年? - 紀元前204年)は、秦末期の楚の項梁と項羽の軍師である。項羽からは亜父(あふ、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛された。
居巣(現安徽省巣湖)の人。項梁たちが挙兵したときに既に70才、誰にも仕えずに暮らしていた。陳勝・呉広の乱で項梁が挙兵するとはるばるやって来て項梁に対してかつての楚の懐王の孫である心を連れてきてこれを楚王として建てるべきだと進言した。項梁はこれを最もと思い、心を祖父と同じ懐王と名乗らせた。これが後の義帝である。
その後は項梁の傍に居たと思われるが、『史記』の記述では懐王を建てた後、鴻門の会まで范増は登場しない。
項梁が秦の章邯軍によって戦死した後、項羽は宋義の指揮下に入って、秦に攻められている趙の救援に向かい、劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。この時、懐王より真っ先に関中に入った者を関中王とするとの約束が交わされた。
項羽は途中で宋義を斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破った。
しかし、その間に咸陽一番乗りを劉邦に奪われてしまった。その時に劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを大望有るゆえと察知し項羽が関中に着いた際に劉邦を殺してしまえと進言した。
項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。それが「鴻門の会」である。この会の途中で幾度も項羽らに対し劉邦暗殺を行うように指示をするものの、張良や項伯や樊噲などが邪魔をし、結局は暗殺出来なかった。会の後に范増は劉邦を暗殺できなったことを悔しがり、「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことが出来ない!)と言って劉邦から贈られた器を叩きつけて壊してしまった。豎子とは項羽を指す。
その後、項羽が秦を滅亡させ各諸将を封建する際に、劉邦が危険だと項羽に言い聞かせ、劉邦を辺境の地の漢中へ左遷させ、また劉邦が攻め入ってきても大丈夫なように、秦の故地である関中に旧秦の将軍である章邯らを配置した。
だが、劉邦が韓信を得て章邯らを滅ぼし楚漢戦争が激化。范増も軍師として項羽を支持するものの、榮陽の包囲戦の時に陳平の離間の計にかかった項羽は范増たちを疑うようになる。これに怒った范増は「天下の形勢はおおむね定まりました。後は君王(項羽)自ら行ってください。」と言って引退を項羽に宣言し、故郷へ帰る途中に背中に膿が溜まる病気にかかり、死亡した。紀元前204年のことである。
范増を失った後の項羽は、戦争に勝っても勝っても劉邦を追い詰めることが出来ず、結局項羽は滅亡することになる。劉邦は楚漢戦争後に、「項羽は范増一人すら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」と語った。
ちなみに、范増の故郷では范増の無念の死を弔うために毎年祭事を続けていたと伝えている。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 中国史の人物 | 秦代の人物