芳賀高継
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芳賀 高継(はが たかつぐ、大永6年(1526年) - 文禄元年(1592年))は宇都宮氏の家臣。芳賀高経の三男で、芳賀高照の弟。
真岡城を領していた。兄の高照は、芳賀高定によって殺害された。父の死後、高定の実家である益子氏のもとで養育され、のちに仇に当たる高定から家督を継承したという。内政や外交手腕に優れていたという。宇都宮氏への忠誠心が篤い人物ではあったが、父や兄の死には割り切れないものがあったらしく、後に勢力争いから自分を養育してくれた益子氏を攻め滅ぼしている。
1566年、宇都宮広綱の名代として宇都宮軍を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も、広綱の代わりに出陣した。広綱の死後は子の宇都宮国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏や佐竹氏、白河結城氏と手を結んで北条氏と対抗するという、巧みな外交戦術を見せたという。だが、晩年はその親北条路線が、親佐竹路線を採る主君・国綱の疑念を買って、国綱の弟である高武を養子に迎えて家督を譲った。