宇都宮広綱
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宇都宮 広綱(うつのみや ひろつな、天文12年(1543年) - 天正8年(1580年))は下野の戦国大名で、宇都宮氏二十一代当主。宇都宮尚綱の子。幼名は伊勢津丸。正室は佐竹義昭の娘。宇都宮国綱・結城朝勝・芳賀高武の父。
父が那須高資と戦って敗死したとき、わずか7歳と言う幼少であったため、家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延びる。そのため、以後は高定の補佐を受けて育つ。それから二年後の1551年、父の仇である高資を殺害する。1555年には、反抗的な家臣芳賀高照を高定が暗殺し、さらに宇都宮城を占領した家臣壬生綱房が急死し、1557年、宇都宮城は広綱の手に戻った。
その後は上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏よりの諸大名と徹底して対立する。一時的に北条氏に屈したことも遭ったが、佐竹氏らと同盟を結んで、独立を保持した。
しかし1580年、病のために死去した。晩年はずっと病床にあったといい、その期間は死が伏せられていた可能性もある。
- 下野宇都宮氏歴代当主
- 1549~1580
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- 先代:
- 宇都宮尚綱
- 次代:
- 宇都宮国綱