宇都宮国綱
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宇都宮 国綱(うつのみや くにつな、永禄11年(1568年) - 慶長12年11月22日(1608年1月9日))は下野の戦国大名。宇都宮広綱の嫡男。
1580年、父の死とともに宇都宮氏二十二代目を継承する。しかし、幼少であったことと父の死に付け込まれて、後北条氏の侵攻がさらに激化することとなった。これに対して、国綱は佐竹氏や結城氏、さらには豊臣秀吉と手を結んで、何とか独立を保っている。
1590年の秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣している。
しかし、1597年、突如として秀吉の命により改易された。これには諸説があり、最も有力な説は、国綱には継嗣が無かったため、五奉行である浅野長政の三男浅野長重(忠臣蔵で有名な赤穂浅野家の租)を養子として迎えようとしたらしいが、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対し、長政がそれを恨みに思ったためと言われている。
その後、国綱は宇都宮氏を再興すべく、慶長の役にも参陣したが、秀吉の死によりかなわなかった。そして諸国を流浪し、1608年に失意のうちに病死したと言われている。
息子の宇都宮義綱は成人後、水戸藩家臣となった。
- 下野宇都宮氏歴代当主
- 1580~1608(1597改易)
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- 先代:
- 宇都宮広綱
- 次代:
- 宇都宮義綱(水戸藩家臣)