臨シ
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臨淄(りんし)は、中国山東省淄博市の区の一つで工業都市・交通の要所。国家歴史文化名城に指定されている。人口59万人(2002年)。
[編集] 歴史
中国春秋時代の斉の首府とされた都市。周王室により東海地方に封じられた太公望によって築かれる。最初営丘、のちに名をあらため臨淄となった。
土壌が痩せていて農耕に適さないことから、製鉄、銅の精錬、陶器製造、織物など工業を中心とした街づくりが進められた。桓公の時代には、宰相管仲によって都市整備がなされ、当時屈指の工業都市となった。城は王の住む小城と住民の住む大城が連なり、周囲21km、面積は15平方kmだった。城内には井の字型に大路が走り、排水などの都市機能も完備されていたことが、今に残る都城跡から確認できる。
前漢時代には劉邦が息子を斉王に封じて臨淄を拠点とし、人家十万戸を数え依然中国東部最大の都市のひとつだった。しかし西晋時代以降は戦乱で衰退した。元の末期に古くからの都城はついに放棄され、現在の市街地につながる新しい都城が東南に作られた。
[編集] 産業
付近では山東省の穀倉地帯として小麦や綿花の生産が行われていたが、勝利油田の開発以降、臨淄は新興工業都市として復活した。中国石油化工集団の石油化学コンビナートがあり、合成樹脂や合成ゴム、エチレンなどの生産で中国有数の規模を誇っている。
[編集] 臨淄の住民の遺伝学的研究
2000年に東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前、2000年前の臨淄遺跡から出土した人骨、及び現代の臨淄住民から得た遺伝子(ミトコンドリアDNA)の比較研究の結果を発表した。それによると、約2500年前の春秋戦国時代の臨淄住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨淄住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨淄住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。これによって、古代の「中国」の住民を構成した人間集団が現代の中国人集団とは異なる集団を含んだ多様な構成を示したのではないかという仮設が浮上してきている。