紫電改
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「紫電改」(しでんかい)とは、水上戦闘機「強風」を元に開発された局地戦闘機 紫電(しでん)一一型の改良型である二一型以降の「紫電」を指し、紫電改の名称は戦後に発生したネーミングである。局地戦闘機、即ち迎撃戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。設計生産は二式大艇の設計で有名な川西航空機(現新明和工業)、主任設計技師は菊原静男技師。同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」が保守的な設計だったのと対照的に、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼、熱電対式自動消火装置)が特徴である。後世の評価は大きく分かれているが、その数奇な運命やネーミングから人気が高い機体である。米軍を中心とした連合軍側のコードネームは"George"。
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[編集] 開発の流れ
[編集] 強風から紫電
昭和16年末、川西は試作中の「強風」の陸上戦闘機化を海軍に提案。同年12月28日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた(同時に二式大艇の陸上攻撃機化も検討されている)。
完成を急ぐため、可能な限り「強風」の機体を流用することになっていたが、実際には発動機を「火星」から大馬力かつ小直径の「誉」への換装や尾輪装備のため、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も東大で研究の進んでいたLB翼型をもとに、川西が開発した層流翼(P-51 マスタングも採用)のままであった。
昭和17年12月27日に試作一号機が完成したが、日本機としては大直径プロペラに対応して採用した二段伸縮式の主脚や「誉」の不調、これに起因する離着陸時の事故の多発、前方視界不良や速度不足などの問題が発生した。しかし、問題未解決のまま昭和18年8月10日に量産が命じられた。これは、従来の海軍主力戦闘機機である零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなってきたこと、零戦の後継と目されていた「雷電」の実戦配備が遅れていたことが主な原因である。
[編集] 紫電から紫電改
昭和18年3月15日、「紫電」の不調を解決する抜本的な解決策として、胴体部分を再設計することになり、「仮称一号局地戦闘機改」として開発が始まった。川西の努力の結果、同年12月31日に試作一号機が完成した。
紫電の改良型と言うより、尾翼付近を流用した別の機体と言っても過言では無いぐらい改修点が多く、主翼配置を中翼から低翼とし、また胴体全体を「誉」の直径に合わせて絞り込んだことで、低翼化に伴い発動機周り以外では最もトラブルが多かった二段伸縮式主脚を廃止されたことで主脚関係のトラブルが激減、同時に離着陸時の前下方の視界も改善された。また部品点数を紫電の2/3に削減し、量産性を大幅に高めていた。
主翼配置が中翼から低翼式に変更されたが、翼型は強風・紫電一一型と同様であった。また紫電一一型・一一甲型(N1K1-Ja)では20mm機銃2挺をガンポットとして主翼下に外付けしていたが、「紫電改」では紫電一一乙型(N1K1-Jb)と同様、4挺とも翼内装備としている。また零戦が採用した「操縦索の剛性低下」と同様、各速度域における操舵感覚と舵の効きの平均化を可能とする腕比変更装置が導入された他、「強風」以来の自動空戦フラップも改良により実用性を高めている。
零戦で問題となった防弾装備については、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンクとなり、更に自動消火装置も装備されていた。操縦席前方の防弾ガラスは装備されていたが、操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。但し、防弾板が装備された機体を目撃したという搭乗員の証言もある。
[編集] 派生型
- 十五試水上戦闘機/強風一一型(N1K1)
- 紫電シリーズの母体となった水上戦闘機。発動機は「雷電」と同じ火星一三型を搭載。武装は翼内20mm機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。試作一号機のみ二重反転プロペラを装備。
- 仮称一号局地戦闘機/紫電一一型(N1K1-J)
- 発動機を火星一三型から誉二一型に換装した陸上戦闘機型の極初期型。武装は翼下の20mmガンポット機銃2挺、胴体7.7mm機銃2挺。
- 紫電一一甲型(N1K1-Ja)
- 胴体の7.7mm機銃を廃止し、翼内20mm機銃2挺を追加した武装強化型。
- 紫電一一乙型(N1K1-Jb)
- 翼下の20mmガンポット機銃を廃止して翼内に20mm機銃4挺を内蔵した型。
- 紫電一一丙型(N1K1-Jc)
- 一一乙型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。試作のみ。
- 仮称一号局地戦闘機改/紫電二一型(N1K2-J)
- 胴体を誉に合わせて細く再設計し、主翼配置を低翼式に変更した改修型。後期生産型では垂直尾翼面積を縮小。
- 紫電二一甲型(N1K2-Ja)
- 二一型の爆装を60kg爆弾4発または250kg爆弾2発に強化した型。
- 紫電三一型(N1K3-J)
- 紫電改一。二一甲型の機首に13mm機銃を追加した武装強化型。試作のみ。
- 紫電四一型(N1K3-A)
- 紫電改二。三一型に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型。試作のみ。
- 紫電三二型(N1K4-J)
- 紫電改三。三一型の発動機を低圧燃料噴射装置付きの誉二三型に変更した型。試作のみ。
- 紫電四二型(N1K4-A)
- 紫電改四。三二型に着艦フックなどを追加した艦上戦闘機型。試作のみ。
- 紫電五三型(N1K5-J)
- 紫電改五。発動機をハ四三-一一型(離昇2,200馬力)に変更した型。試作のみ。
[編集] 諸元
制式名称 | 紫電一一型 | 紫電二一型 |
機体略号 | N1K1-J | N1K2-J |
全幅 | 11.99m | 11.99m |
全長 | 8.945m | 9.346m |
全高 | 4.058m | 3.96m |
自重 | 2,897kg | 2,657kg |
正規全備重量 | 3,900kg | 4,000kg |
発動機 | 誉二一型(離昇1,990馬力) | 同左 |
最高速度 | 583km/h(高度5,900m) | 594km/h(高度5,600m) |
実用上昇限度 | 12,500m | 10,760m |
航続距離 | 1,432km(正規)/2,545km(過荷) | 1,715km(正規)/2,392km(過荷) |
武装 | 主翼下ポッド20mm機銃2挺(携行弾数各100発) 機首7.7mm機銃2挺(携行弾数各550発) |
翼内20mm機銃4挺(携行弾数各200~250発)計900発 |
爆装 | 60kg爆弾2発 | 同左 |
生産機数 | 1,007機 | 415機 |
注)生産機数はそれぞれ一一型全体、二一型以降の数値。
[編集] 実戦
太平洋戦争中盤以降、敗勢が続いていた日本海軍戦闘機隊に米軍の最新鋭戦闘機と互角に戦える強力な戦闘機として登場した。特に大戦末期、源田実大佐の元、松山基地で編成された第三四三航空隊(2代目。通称「剣」部隊。以下「三四三空」と略)は、集中配備された「紫電改」と腕の立つパイロットを組み合わせ、更に徹底的な改良が施された無線機(無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げたとされる。とりわけ昭和20年(1945年)3月19日、呉軍港を襲った米海軍機動部隊のグラマン F6Fヘルキャット戦闘機を主力とする艦上機の大編隊(戦爆合計で350機以上と言われ、1/3が戦闘機。三四三空が交戦したのはその半分程度)を紫電改56機、紫電7機の計63機で迎撃、戦闘機48機・爆撃機4機の合計52機を撃墜し、大日本帝国海軍戦闘機隊の有終の美を飾ったという伝説は有名。戦後になってこの伝説のおかげもあって、『遅すぎたゼロ戦の後継機』として一般に認知されている。
しかし、撃墜52機という戦果は日本側の記録であり、米軍の戦闘報告と照合したところ、実際にはそこまで大きな損失は無かったという調査結果もある。その後の三四三空の活躍も、米軍の記録と照合した結果、殆どが過大であったとされる(戦場では戦果誤認は避けられず、米軍の戦果報告も過大だったという)。但し、数で圧倒的に勝る米軍と互角に戦い、時には勝利を納めていることも事実である。
更に、「紫電」の運用指導のため松山基地を訪れた坂井三郎中尉(当時)の「実働機を遙かにしのぐ廃棄された「紫電」が山と積まれていた」という証言や、各パイロットの飛行時間及び練習飛行隊卒業日時から類推されるように、三四三空のパイロットは一握りのベテランを除くと未熟な新人がかなり含まれており、一般に伝えられる「手練ればかりを集めた」との評価は事実と隔たりもあるのだが、司令官である源田実大佐がベテラン搭乗員を指名転属させたり、他の航空隊が新人搭乗員を十分な練成期間も無しに実戦投入している中、それなりの期間訓練を行った後に実戦参加させた事により戦果が拡大し「手練ればかり」といわれたのである。
1979年11月、愛媛県南宇和郡城辺町(現・愛媛県南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1機の「紫電改」が発見され、翌1980年7月に引き揚げられた。1945年7月24日に豊後水道上空で交戦した三四三空の未帰還機6機の内1機とみられている。この機体は回収後に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実機として愛南町にある南レク城辺公園に保存・展示されている。
[編集] 評価
同時期に開発された同じ発動機を搭載する中島飛行機の四式戦闘機「疾風」(以下、四式戦と略)と「紫電改」のカタログスペック上での最高速度を比較すると「紫電改」の方が劣っている。しかし、「紫電改」の試作時における最大速度は620km/hで、四式戦の最高速度624~631km/hと大きな差はない。「紫電改」の最高速度が四式戦に比べて30km/hほど遅いのは、採用時期が遅く、誉の工作精度が落ち、燃料やオイルなどの質も誉に適した物が使用出来なくなったため出力が低下していたのではないかと考えられる。 「紫電改」の米軍テスト時の正確な数値は不明だが、「当時のどの米海軍の現役戦闘機よりも優速であった」というコメントが残されており、また米軍に引き渡すための空輸の際、巡航する紫電改に監視役のF6Fが全力で追いすがったと伝えられる。また、昭和26年に来日した米空軍将校団の中にアメリカで紫電改をテストした中佐がおり、こう評したという。「ライトフィールドで「紫電改」に乗って、米空軍の戦闘機と空戦演習をやってみた。どの米戦闘機も「紫電改」に勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と。以上のことから、「紫電改」は米軍テスト時に689km/hを記録し、「最優秀日本戦闘機」と呼ばれた四式戦に勝るとも劣らない機体であったと考えられる。もっとも、四式戦や紫電改と相対していた当時の米軍機は、機体の数量もさることながら、日本ではまだ試作段階であった耐Gスーツやジャイロ式見越し射撃角自動補正機能付照準器等を既に装備しており、また三四三空が本格的に導入した無線装置を駆使したロッテ戦法や一撃離脱戦法等の戦技面においても、米軍に一日の長があったことも事実である。
スミソニアン博物館に展示されている「紫電改」の説明文に「太平洋で使われた万能戦闘機のひとつである」とされながらも、「B-29に対する有効な迎撃機としては高高度性能が不十分であった」と書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能が優れているとは言えなかった。これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器や二段式機械過給機を実用化出来なかったためである。なお、この「紫電改」の高高度性能不足を補うため、一時は生産中止されそうになった「雷電」の生産が促進するという対策がなされている。
また、パイロットの技量や誉の工作精度が低下し、燃料、オイルなども誉に見合った物が使用されず燃費が悪化していたため、沖縄戦において攻撃機(特攻機)の援護を行うには航続距離が不足したことから、当時のパイロットの「紫電改」への評価には分かれる所もある。
[編集] 紫電改が登場する作品
[編集] 映画
[編集] 漫画
[編集] 小説
- 小高登貫『ああ 青春零戦隊』
- 城山三郎『零からの栄光』
[編集] 参考文献
- 雑誌「丸」編集部 編『保存版 軍用機メカ・シリーズ1 紫電・紫電改/九四水偵』(光人社、1992年) ISBN 4769806310
- 碇 義朗『最後の戦闘機 紫電改 起死回生に賭けた男たちの戦い』(光人社、1994年) ISBN 476980671X
- 『世界の傑作機 No.53 強風, 紫電, 紫電改』(文林堂、1995年) ISBN 4893190504
- 野原 茂『エアロ・ディテール26 川西局地戦闘機「紫電改」』(大日本絵画、1999年) ISBN 4499227119
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ24 局地戦闘機紫電改 海軍航空の終焉を飾った傑作機の生涯』(学習研究社、2000年) ISBN 4056020647
- 野原 茂『日本海軍戦闘機 強風 紫電 紫電改』(モデルアート社2001年6月号臨時増刊 No.587)
[編集] 関連項目
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