簡雍
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簡雍(かんよう、?-?)は、三国時代の蜀漢の武将。字は憲和。幽州の人。劉備と同郷の出身者で、その竹馬の友人だった。『三国志集解』によると、簡雍の旧姓は“耿”だったが、幽州では“簡”と発音されてたので、そのために改姓したという。また、地元の富豪の子息で、劉備の母方のいとこに当たるともいわれている。
[編集] 略要・人物
[編集] 生涯
黄巾の乱に対して劉備が起こした義勇軍に加わって、使者や参謀として活躍した。曹操や呂布との戦いなどにも参加して、常に劉備に随伴している。しかし、傲慢で無頓着な性格だったため、他人からの反発を買うことも少なくなかった。諸葛亮に対しても遠慮をしなかったという。しかし、劉備と共に早くから苦楽を共にしていたため、劉備からは重用された。劉備が厳しすぎる禁酒令を出したときは、これを諌めている。三国志演義同様、正史においても劉備が蜀を奪おうとしたときの成都攻めで、劉璋に降伏を勧める使者として入城した。結果、劉璋を降伏させることには成功したが、ここでも傲慢な態度をとったため、劉璋の家臣団から恨まれたという。
劉璋を降伏させた功績により、劉備から昭徳将軍に任命されている。
[編集] 禁酒令での逸話
劉備が禁酒令を出した際、簡雍も禁酒令に触れてしまった。これは酒造の器具の所有も禁じたためである。ある時、簡雍は劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、これを真に受けて禁酒令を緩和して、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。