劉璋
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劉璋(りゅうしょう、162年?-219年)は、中国の後漢末期の群雄。劉焉の子。家系は劉氏。字は季玉。劉循と劉闡らの父である。
[編集] 益州牧として
彼は劉焉の少子(年少の子)だったが、長兄の劉範や次兄の劉誕と三兄の劉瑁らが相次いで早世したため、194年に父・劉焉が病死した時に、その世子として、後を継いで益州牧となる。彼の性格は穏やかで優柔不断で他人の意見に左右され易い一面があったといわれているが、三国志演義で言われているように暗愚な人物ではなく、乱世には向かない凡庸な君主であった。だが、彼は覇者になりたいとか、勢力拡大の野望を持たなかったため、彼の治世中、劉備の入蜀の戦いを除いて、益州は中央の戦乱に巻き込まれることはなく、平和で善政が敷かれていたと言われている。
だが、彼の重臣の中には野心家の張松、法正、孟達らがいて、彼等は既に劉璋の下では出世がおぼつかないと考え、これを見限り劉備を益州の牧として迎えるべく画策する。この頃、益州にもようやく張魯や曹操らの脅威が迫りつつあった。元々、戦が不得手であった劉璋は、このこともあって張松らの進言を聞き入れて、あっさりと劉備を蜀に入れることを許してしまう。この時、王累や黄権と李恢ら多くの重臣が反対したが、劉璋は聞き入れなかった。
後に張松の兄・張粛の密告で張松の内通行為が露見すると、劉璋は張松を処刑して劉備と対立した。劉璋の武将・張任らが懸命に抗戦したが、戦慣れした劉備軍の前に遂に敗れ、劉備軍が成都に迫って来る。214年(建安19年)の夏5月の劉備の降伏勧告に対し、董和と許靖らは劉璋に徹底抗戦を主張したが、劉璋は「わしはもはや領民を苦しめたくない」と言って決断し、降伏した。また、劉巴が成都を焼き払って焦土作戦を採るように進言した時も、領民のことを考えて受け入れなかったなど、領民思いな一面が描かれている。
[編集] その後の劉璋
降伏後、劉璋は劉備の命令で次男の劉闡と共に荊州の西部にある公安に移された。長男の劉循は奉車中郎将として、成都に滞まってそのまま劉備の家臣となった。
219年、関羽が呉の呂蒙によって殺され、荊州が呉に奪われた時、劉璋はそのまま孫権に帰順してその家臣となり、孫権に益州の牧に任じられた。だが、間もなく病死した。
[編集] 劉璋の評価
劉璋は、本当に暗愚な君主だったどうかはわからない。ただ、彼が全く勢力拡大の野心を抱かなかったのは事実のようであり、そのため、益州の人民は劉備に奪われるまでは穏やかに平和を享受していたようであったし、政治においても劉璋に代わって董和や黄権らといった有能な家臣団が善政を敷いていたため、正史『三国志』における彼の評価も、悪い評判はほとんど見られない。ただ、劉璋がお人好しで周囲の重臣たちの意見に左右されやすかったことは事実で、この性格が命取りになったとも言えるであろう。
正史でも、著者の陳寿は「土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」と厳しい評価をしている。だが、陳寿は蜀漢の遺臣であり、劉備や諸葛亮の蜀奪りを正当化するために、劉璋への評価が厳しくしたものと思われる。さらに演義などでは暗愚さが一層強調されたものと思われる。劉璋には配下にも多くの忠臣がいたことが示すように、決して暗愚な人物でなければ、悪政も敷いていなかったのである。