石井連蔵
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石井 連藏(いしい れんぞう、1932年6月26日-)は、早稲田大学野球部で選手、監督を務めた人物である。
水戸第一高等学校から1951年早稲田大学に進み、2年生からエースとして重いストレートと大きなカーブを武器に活躍した。通算20勝、なかでも早慶戦では6勝を挙げ大活躍した。2年次は慶應の河合貞雄と春秋にわたって全試合に投げ合いを演じ、春2位、秋優勝の記録を残した。また、4年次には主将を務めたほか、持ち前の勝負強い打撃から4番打者をも務め、「主将・エース・4番打者」として慶應・藤田元司、明治・秋山登らと鎬を削り、1954年秋のリーグ優勝に貢献した(このシーズン首位打者・打点の二冠を獲得)。
卒業後は社会人の日本鋼管でプレーし、1957年に母校のコーチに就任。先代森茂雄の退任に伴い、1958年に25歳の若さで早稲田大学野球部第9代監督に就任。同郷・同学の大先輩飛田穂洲ゆずりの精神野球を掲げ、投手中心に守りの堅い野球で就任3シーズンでチームを大学選手権初優勝に導く。その猛練習は“千本ノック”“ノックを逃げた選手を追いかけノックするうちにグラウンドを一周してしまった”“日が沈んでもボールに石灰をまぶしてノックを続けた”などの異名や逸話に代表され、“飛田穂洲の秘蔵っ子”また炯炯たる眼光と厳しい顔立ちから“鬼の連蔵”と呼ばれた。1960年には伝説となった“早慶6連戦”を指揮、チームを3季ぶりの優勝に導いた。この“6連戦”は慶應・前田祐吉監督との青年監督対決としても話題を呼んだ。
しかし、“6連戦”以降法政の台頭・慶應の全盛の陰でチームは下降線をたどり6季連続4位以下と空前の大不振をかこう。この不成績と厳しすぎる練習による選手の伸び悩みの責任を問われるように、1963年秋のシーズンを最後に監督を退き、朝日新聞に転じる。
朝日新聞時代、石井は学生野球史上に残る大事業を為す。それが日米大学野球の実現であった。監督時代の教え子であったアイク生原の協力も得て、日本の野球関係者の悲願であった野球の祖国アメリカとの定期戦を実現したのだった。1972年に実施された第1回大会は山口高志の大活躍で日本が勝利した。このときの日本の監督が同郷で石井の次の早大監督だった石井藤吉郎だったのは何かの因縁か。
その後、早大監督としての名誉挽回のチャンスが訪れる。1988年、低迷にあえぐ早大野球部の第14代監督に就任したのだ。早稲田大学は前年所沢新キャンパスに人間科学部を設立、水口栄二ら多くの有望な新人を補強した。しかし早稲田スポーツはいずれも低迷しており、野球部も法政・明治のみならず、宿敵慶應にも後塵を拝する日々が続いていた。チームを再建してこの苦境を脱し、再び野球部の黄金時代を築こうという機運の中で石井に白羽の矢が立ったのだ。
そうはいっても就任直後は法政の黄金時代、目前で3度目の4連覇を達成されてしまう。しかし、厳しい練習の中にも選手の自主性を重んじる姿勢をとった第二次石井政権は、3年目の1990年春、水口ら人間科学部1期生を中心としたチームで慶應との12年ぶりの優勝決戦を苦しみながらものにし、早稲田の杜に8年15シーズンぶりの天皇杯をもたらした。スタンドからの“いいぞ いいぞ イ・シ・イ”のコールに深々と頭を下げる石井の姿は印象的であった。 1993年秋にも再びリーグ優勝を遂げ、翌1994年秋のシーズンを最後に監督を引退した。
2度の監督時代の門下には、前半で安藤元博・徳武定之・近藤昭仁、後期には水口栄二・小宮山悟・仁志敏久・織田淳哉ら、卒業後プロで活躍した選手たちを送り出した。
その後も日本学生野球協会の要職を務め、現在も早大の試合のある日は神宮球場のネット裏でチームに厳しくも暖かい視線を送る。
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