真岡藩
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真岡藩(もおかはん)は、下野国芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。
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[編集] 藩史
戦国時代、宇都宮氏が支配していた真岡は、江戸時代の慶長6年(1601年)、豊臣氏で五奉行を務めていた浅野長政の子で浅野幸長の弟に当たる浅野長重が2万石で入ることで真岡藩が立藩した。長重は町割りや城下町の整備などに尽力した。慶長16年(1611年)、父の長政が死去したとき、父の隠居料であった常陸国真壁藩5万石の所領を継ぐこととなった長重は、真壁に移った。代わって堀親良が1万2000石で入る。親良は大坂の陣で戦功を挙げたため、元和4年(1618年)に5000石を加増された。親良も城下町建設に尽力した。寛永4年(1627年)、親良が下野国鳥山藩に加増移封された後、稲葉正成が2万石で入った。この正成は小早川秀秋の家老だったが、秀秋没後は徳川氏の家臣となってこの頃は福井藩主・松平忠昌付となっていた。だが、翌年に正成は58歳で死去した。後を正成の子・稲葉正勝が自分が領していた2万石と父の遺領である2万石の合わせて4万石を継いで藩主となった。正勝はその後、徳川家光のもとで老中となり、加藤忠広改易のときの事後処理などを担当した功績から、寛永9年(1632年)に相模国小田原藩に加増移封された。これにより、真岡藩は廃藩となり、その所領は小田原藩の飛び地領を経て、天明3年(1783年)からは天領となったのである。
ちなみに正勝自身はそんなに有能な人物とはいえなかったが、異例の昇進を遂げることができたのは、大奥で絶大な権勢を掌握していた春日局のおかげであった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 浅野(あさの)家
2万石。外様。
- 浅野長重(ながしげ)
[編集] 堀(ほり)家
- 堀親良(ちかよし)